第47話:波紋の境界線
相原美咲が敷いた完璧な箱庭の日常に、ある日、外の世界からの小さな「波紋」が届いた。
木曜日の午後二時、営業部のオフィスは静まり返っていた。美咲は自分のデスクでいつものように完璧なタイピングを続けながら、引き出しの奥のスマートフォンで高橋大輔の様子を監視していた。画面の向こうの大輔は、青畳の上で大人しく横たわり、美咲が与えた指示通りに指先を動かす運動を繰り返している。その従順な姿を見るだけで、彼女の胸の奥は甘い全能感で満たされていた。
「――あの、すみません。営業部の高橋大輔さんのことで、少しお伺いしたいのですが……」
突然、オフィスの入り口から聞こえてきた見知らぬ声に、美咲の指先がピタリと止まった。
眼鏡の奥の瞳を鋭く尖らせ、美咲は声を抑えて入り口の方を盗み見た。そこに立っていたのは、落ち着いたグレーのスーツを着た、三十代半ばほどの見知らぬ男性だった。手には小さな警察手帳のようなもの、あるいは探偵の身分証のようなものを握っている。
「はい、営業課長ですが……高橋なら、数ヶ月前に一身上の都合で退職いたしましたが。ご家族の方からもそのように伺っておりますが、何かあったのでしょうか?」
課長が怪訝そうな顔で席を立ち、その男の元へと歩み寄っていった。フロアの他の社員たちも、何事かと手を止めて注目し始める。美咲は心臓がドクン、と不快な音を立てて跳ね上がるのを感じた。
「私は、高橋さんの大学時代の友人から依頼を受けた、調査員のものです。実は、高橋さんが『海外のプロジェクトに参加するから連絡が取れなくなる』というメッセージを最後に、友人たちのLINEグループから完全に退会してしまいまして。ご実家のご両親に確認したところ、ご両親もメールでのやり取りだけで、もう数ヶ月も本人の直接の『声』を聴いていないと言うんです。不審に思ったご友人が、本当に本人の意思での退職なのか、事件性に巻き込まれていないかを確認したくて、こうして失礼を承知でお伺いした次第です」
調査員の男の言葉は、理路整然としていた。
高橋を社会的に抹殺するため、美咲は彼の実家や友人関係に対して、彼のアカウントから完璧なタイミングで偽のメッセージを送り続けていた。しかし、人間の繋がりとは美咲の計算以上に強固なものだった。あまりにも完璧すぎる「音信不通」の状況に、彼の過去の人間関係が、ついに小さな違和感を抱き始めてしまったのだ。
「いや、しかし……提出された退職届の筆跡も本人のものでしたし、診断書もちゃんと病院のものが添付されていましたよ」
課長は面倒くさそうに首を振った。当然だ。その退職届は、美咲が過去の高橋の書類から筆跡をミリ単位でスキャンし、完璧に模倣して書き上げた『最高傑作』だったからだ。
「分かりました。会社側としては手続きに問題はなかったということですね。失礼いたしました。ただ、もし何か彼について不審な連絡や、彼と最後に親しくしていた社員の方がいらっしゃれば、お話を伺いたいのですが……」
調査員がフロアを見回した。その視線が、一瞬だけ美咲のデスクの方向を通過する。
美咲は瞬時に、怯えた、何も知らない地味な事務職の表情を作り、机の上の書類に目を落とした。背中を冷たい汗が伝う。
(目障りな虫が、私の聖域に近づこうとしている……。大輔さんは私だけのもの。誰にも、指一本触れさせない)
美咲の胸の奥で、どす黒い殺意と執着がドロドロと燃え上がった。
男がフロアを去った後も、オフィスのあちこちで「やっぱり高橋さん、何かおかしかったんじゃないか?」「失踪事件じゃないか?」という噂話が再び亡霊のように這い回り始めた。美咲はキーボードを叩きながら、心の中で冷酷に呟いた。
「もう、この会社でのタイムリミットが近づいているのかもしれない。大輔さんを連れて、もっと遠くへ、誰の目も届かない本当の地の底へ逃げなきゃ……」
彼女の頭脳は、迫りくる外の世界の脅威を排除するため、さらに危険で、より決定的な『次の一手』を冷徹に描き始めようとしていた。




