第45話:二重螺旋の日常
朝のオフィスに、小気味よいヒールの音が響く。
午前八時四十五分。相原美咲は、いつもと変わらない地味なオフィスカジュアルに身を包み、営業部のフロアへと足を踏み入れた。髪はきっちりとハーフアップにまとめ、眼鏡の奥の瞳には「真面目で無害な事務職の後輩」という、完璧に磨き上げられた仮面が張り付いている。
「あ、相原さん、おはよう。今週の営業経費の精算、データまとめといたから確認お願いね」
「おはようございます、課長。かしこまりました。午前中のうちに処理しておきますね」
美咲はこれ以上ないほど丁寧な、少し高めの使い分けられた声で返事をした。
フロアの誰もが、彼女を「気が利いて、仕事を完璧にこなす便利な女の子」だと信じて疑っていなかった。かつてこの場所で営業のエースとして輝いていた高橋大輔が失踪し、その原因が「精神疾患による自発的な引きこもり」として処理された後も、美咲は一切の動揺を見せず、ただ黙々と自分の仕事をこなし続けていた。
「本当に、高橋くんはどうしちゃったんだろうね。実家のご両親も『本人が海外で元気にやっているから探さないでくれと言っている』って言ってたらしいけど、急に会社を辞めるなんてさ」
給湯室で、他部署の女子社員がコーヒーを淹れながら噂話をしている。美咲は穏やかな、少し悲しげな表情を貼り付けてその輪に加わった。
「そうですね……。高橋先輩、すごく責任感の強い方でしたから、色々と抱え込んでしまっていたのかもしれません。寂しいですけど、どこかで元気にしてくださっていればいいですよね」
「相原さんは本当に優しいね。高橋くん、最後の時期は相原さんにだけは心を開いてたみたいだし、きっと君の優しさには感謝してると思うよ」
「そんな……私なんて、大したことは何もしていませんから」
美咲は頬を少し染め、恥ずかしそうに俯いてみせた。
マスクと眼鏡の奥で、彼女の口元が狂おしいほどの愉悦に歪んでいることなど、誰も気づくはずがなかった。
(感謝している? 当然よ。大輔さんは今、世界で一番安全な場所で、私の愛だけを食べて生きているんだもの。あの汚い、誰も大輔さんを守ってくれなかった会社の人たちに、彼のことを語る資格なんてないわ)
美咲は自分のデスクに戻ると、パソコンで業務システムを起動した。画面には複雑な売上データが並んでいるが、彼女は手元の引き出しの奥に隠したスマートフォンをそっと取り出し、画面を伏せたまま指紋認証でロックを解除した。
画面に映し出されたのは、四分割されたあの『箱庭』のリアルタイム映像だった。
会社でキーボードを叩き、真面目に働く事務職としての姿。それが美咲の表の螺旋だとしたら、スマートフォンの画面の向こうにある景色は、彼女の命を形作る裏の螺旋だった。
画面の中、美しい和風の障子戸に囲まれた青畳の上で、高橋大輔はシルクの白いパジャマを着たまま、右手首を繋がれたベッドの上で静かに横たわっていた。リハビリ用のゴムボールを左手で規則正しく握りしめている。美咲が定めた「午前中に百回」というノルマを、彼は忠実に守ろうとしていた。
美咲はその姿を会社のデスクの下で盗み見ながら、胸の奥がじわじわと熱くなるのを感じていた。
誰もが彼を「過去の人」として忘れ去っていく中で、自分だけが彼の現在を、彼の肉体を、彼の呼吸のすべてを所有している。この圧倒的な支配感こそが、彼女が毎日会社で退屈な仮面を被り続けるための、唯一の燃料だった。
「待っていてね、大輔さん。今日の夜は、大輔さんの好きな美味しい煮物を作ってあげるからね」
美咲はキーボードを叩く指先に少しだけ力を込め、オフィスの喧騒の中で、自分の完璧な日常を冷酷に回し続けるのだった。




