第44話:聖母の箱庭
翌朝、高橋大輔が目を覚ました時、部屋の空気がいつもと少し違っていることに気づいた。
アロマディフューザーから漂うベリー系の甘い香りの奥から、新しく乾いた木と、青々とした畳のような、奇妙に落ち着く和の匂いが微かに漂ってきている。高橋は首を動かし、寝室の周囲を見回した。
「……あ、大輔さん。おはようございます。驚かせてしまいましたか?」
キッチンの陰から姿を現した美咲は、いつも会社に着ていっていたような地味な事務職の制服ではなく、白地に淡いピンクの桜が描かれた、美しい和服を身に纏っていた。彼女の髪は綺麗に結い上げられ、普段のオフィスでの暗い印象は完全に払拭されていた。
そして、高橋が最も驚いたのは、ベッドの周囲の景色だった。
ワンルームマンションの無機質なコンクリートの壁には、いつの間にか美しい和風の障子戸が模造されて取り付けられており、床の一部には、彼が眠っているベッドを囲うようにして、本物の青畳が敷き詰められていたのだ。彼女が仕事の合間や夜の時間を削って、この密室の中に、自分たちのための完璧な『箱庭』を作り上げたのだということが、一目で理解できた。
「大輔さん、お外の世界はもう、本当に汚れてしまって、誰も大輔さんのことを覚えていません。だからね、このお部屋の中だけでも、大輔さんが一番リラックスできる、美しい世界にしてあげたかったんです」
美咲は畳の上に正座し、三つ指を突いて高橋に向かって深く頭を下げた。
その姿は、まるで大正時代の古き良き日本のお淑やかな妻そのものだった。しかし、その畳の下には、高橋を24時間監視し続ける隠しカメラの配線がのたうつように這い回っており、彼女の美しい着物の袖口からは、高橋の手首を繋ぐあの冷たい真鍮の手錠の鍵が、チリンと小さな音を立てて覗いていた。
「ありがとう、美咲ちゃん……。すごく綺麗だ。僕のために、こんなことまでしてくれるなんて……」
高橋の口から漏れた声は、以前よりもどこか幼く、掠れていた。
彼は左手を伸ばし、新しく敷かれた畳の表面をそっとなぞった。イグサの心地よい感触が指先に伝わる。美咲は嬉しそうに立ち上がると、ベッドの横にお盆を置いた。今朝の朝食は、丁寧に握られたおにぎりと、出汁の香りがふんわりと立ち上る温かいお味噌汁だった。
美咲はおにぎりを一つ手に取ると、高橋の口元へと運んだ。
高橋は迷うことなく、自ら首を伸ばしてそのおにぎりを一口、大きく齧り取った。美咲が「美味しいですか?」と尋ねると、高橋は子供のような無邪気な笑顔を浮かべて「うん、すごく美味しいよ」と答えた。
「よかった。大輔さんが私の作ったご飯を美味しそうに食べてくれる瞬間が、私の人生のすべてなんです。会社での仕事なんて、ただの大輔さんを飼育するための資金稼ぎでしかないんですよ」
美咲はクスクスと笑いながら、高橋の口元に付いたご飯粒を、自分の指先で優しく取って自分の口へと運んだ。
社内での高橋大輔という存在は、完全に過去の遺物となっていた。
彼の机はすでに片付けられ、新しい中途採用の社員がその席に座っている。誰も彼の名前を口にすることはなく、吉川香織のストーカー事件も、今や遠い昔の噂話として忘れ去られようとしていた。美咲は毎朝、何事もない顔をして出社し、完璧に仕事をこなし、定時になるとこの『箱庭』へと急行する。彼女にとって、外の世界はただの資金調達の場であり、本当の現実は、この手錠で繋がれた完璧な男がいる密室の中にしかなかった。
「大輔さん、今日はお仕事がお休みですから、一日中、一緒にお話ししましょうね。私のこと、たくさん褒めてくださいね」
美咲は高橋のパジャマの胸元を優しく撫でながら、その濁った黒い瞳を激しく輝かせた。
高橋は彼女の要求を拒絶することなく、「美咲ちゃんは世界一優しいよ」と、彼女の望む通りの言葉を機械的に繰り返した。




