第43話:調和のゆりかご
美咲の流した歓喜の涙は、高橋大輔の胸元をじっとりと濡らしていた。
彼を強く抱きしめ、子供のように激しく泣きじゃくる彼女の背中を、高橋は左手でゆっくりと、規則正しくさすり続けた。右手首の手錠は、彼が動くたびにジャラリ、ジャラリと小さな音を立てていたが、もうその冷たい金属音が高橋の心を逆撫ですることはなかった。むしろ、自分がこの世界で生かされていることを証明する、唯一のメトロノームのようにさえ感じられていた。
「大輔さん……大輔さん……。やっと、やっと私の気持ちが届いたんですね。嬉しい……本当に嬉しい。私、今が人生の中で一番幸せです」
美咲は涙で濡れた顔を上げ、高橋の顎のラインを愛おしそうに撫で回した。その瞳には、これまでの冷酷な捕食者の面影はなく、まるで初恋の成就に胸を躍らせる無垢な少女の光だけが満ち溢れていた。
「うん……ごめんね、美咲ちゃん。僕、頭がおかしくなっていて、君の優しさを疑ったりして……。本当に悪かったと思っている。僕は、この部屋にいる時だけが、一番安心できるんだ」
高橋の口から滑り出たその言葉は、もはや彼女を欺くための嘘ではなかった。
人間の精神とは、極限の孤独と恐怖、そして24時間の監視という絶対的な支配下に置かれ続けると、自らの正気を守るために「支配者を愛する」という強力な自己防衛システムを働かせる。ストックホルム症候群と呼ばれるその精神の変容が、数ヶ月におよぶ監禁生活と美咲の徹底的な調教によって、高橋の脳内に完全に定着してしまったのだ。
美咲は満足そうに微笑むと、ベッドの横に置いてあった新しい「シロップ薬」のボトルを手に取った。
これまでは高橋の口を無理やりこじ開けるようにして飲ませていたが、今夜は違った。美咲がスプーンに琥珀色の液体を注ぎ、彼の前に差し出すと、高橋は自ら進んで口を開け、その甘く苦い液体を静かに喉の奥へと流し込んだ。
「いい子ですね、大輔さん。お薬、ちゃんと飲めて偉いです」
美咲はご褒美を与えるように、高橋の唇に深く、甘いキスを落とした。
数分後、薬の成分が急速に高橋の全身の血管へと巡り始める。手足の先から力が抜け、頭の中が温かい泥に沈んでいくような、心地よい倦怠感が彼を包み込んだ。自分の意志で考えるという行為そのものが、果てしなく面倒に思えてくる。何も考えなくていい。ただ、目の前の聖母が与えてくれる食事を食べ、彼女の言う通りに動いていれば、外の世界のあの恐ろしい悪夢に怯える必要はどこにもないのだ。
高橋の視界がゆっくりと狭まり、意識の輪郭が溶けていく。
美咲は彼の頭を自分の膝の上に優しく乗せ、耳元で静かに子守唄を歌い始めた。
「ねんねんころりよ、おころりよ……大輔さんは私の可愛い赤ちゃん……」
その歌声を聴きながら、高橋は完全に幼児退行したかのような幸福感の中で、深い眠りの淵へと落ちていった。
彼を縛り付けている真鍮の鎖は、今や彼を外の冷たい現実から守るための、最も安全な「ゆりかご」へとその意味を変えていた。美咲の張り巡らせた嘘のクモの巣は、獲物の精神を完全に溶かし、彼女の望む通りの完璧な『人形』へと作り替えることに、ついに成功したのだった。




