第42話:調教の檻
午後三時。ワンルームの中に、規則正しい電子音が響いていた。
ピッ、ピッ、ピッ、と等間隔で刻まれるその音は、美咲がリビングの壁に取り付けた、高橋の健康状態を24時間監視するための医療用モニターの音だった。
美咲は、高橋を単に閉じ込めるだけでなく、彼の肉体を「完璧な状態」で管理することに異常なまでの執着を見せていた。彼の心拍数、血圧、体温、そして一日の水分摂取量と排泄物の量まで、すべてがキッチンの横にあるホワイトボードに細かな数字で記録されている。
高橋は、ベッドの上で右手首を繋がれたまま、美咲が用意したリハビリ用の小さなゴムボールを、左手で退屈そうに握りしめていた。
「大輔さんの筋肉が落ちすぎちゃうと、私が悲しいですからね」と言われ、彼女が会社に行っている間、高橋は毎日決まった回数の運動をこなすことを義務付けられていた。もし、ホワイトボードに記録されるリハビリの進捗が彼女の予想を下回っていた場合、その夜の食事の量は半分に減らされ、代わりに強い睡眠薬が投与される。
それは、優しさと慈愛の形をした、完璧な『調教』だった。
高橋は、自分の心が少しずつ、美咲のルールに逆らえなくなっていくのを自覚していた。最初の頃にあった「警察に助けてもらう」「ここから脱出する」という人間としてのプライドは、数え切れないほどの拒絶と薬の副作用によって、綺麗に摩耗し、消え去っていた。
今の彼にとっての最大の関心事は、「どうすれば今夜、美咲を怒らせずに、美味しいご飯をたくさん食べさせてもらえるか」という、家畜としての生存本能だけになっていた。
カチャリ、と玄関のドアノブが回る音がした。時刻は午後六時三十分。一分の狂いもなく、支配者が帰宅した。高橋は無意識のうちに姿勢を正し、ベッドの上で彼女の方へと視線を向けた。
「ただいま、大輔さん。今日もいい子でリハビリを頑張ってくれましたか?」
美咲は、仕事帰りのトレンチコートを脱ぎながら、すぐに寝室へと入ってきた。彼女の目は、真っ先に高橋の左手にあるゴムボールと、モニターの数値へと向けられた。
「あ……美咲ちゃん、お帰りなさい。今日も、ちゃんとボールを二百回、握ったよ」
高橋は、かつての張りのある声を絞り出し、彼女の顔色を伺うようにして言った。美咲はその言葉を聞くと、まるでよく出来た飼い犬を褒めるかのように、満面の笑みを浮かべて彼のベッドへと駆け寄ってきた。
「本当ですか!? すごい、大輔さん! 偉いですね、約束をちゃんと守ってくれて。私、大輔さんが私のために頑張ってくれるのが、一番嬉しいんです」
美咲は高橋の細くなった身体を強く抱きしめ、彼の首筋に何度も顔を埋めてその匂いを嗅いだ。
「今日ね、会社でとっても面白いことがあったんですよ。新しく入ってきた後輩の女の子がね、大輔さんの昔の営業資料を見て『この高橋さんって先輩、すごく素敵ですね。今どこにいらっしゃるんですか?』って聞いてきたんです。だから私、教えてあげました。『高橋先輩はね、心がとっても弱くって、壊れちゃったから、もう二度とここには戻ってこないよ』って。クスクス……あの子、すごく残念そうな顔をしていました」
美咲は高橋の耳元で、嬉しそうにその報告をした。
高橋の胸の中に、一瞬だけ、かつて自分が輝いていたオフィスの景色が眩しく蘇った。しかし、それと同時に、今の自分が真っ白なパジャマを着せられ、手錠でベッドに繋がれているという現実の落差が、彼の心を冷酷に突き刺した。
もう、あの世界に自分の居場所はない。高橋大輔という人間は、社内では「精神を病んで失踪した哀れな男」として処理され、人々の記憶から少しずつ風化していくのだ。
「大輔さんには、私だけがいればいいんですよね? あの会社の人たちも、外の世界の誰も、大輔さんの本当の優しさを分かってくれないんだから」
美咲は高橋の顔を両手で挟み込み、その濁った黒い瞳で彼のすべてを見透かすように凝視した。高橋は、彼女のその瞳から逃れるように目を伏せることはしなかった。そんなことをすれば、また彼女の「お仕置き」が始まるのを知っていたからだ。
「うん……そうだね、美咲ちゃん。僕には、君だけがいればいい。君が、僕のすべてだよ」
高橋の口から漏れたその言葉は、もう演技ではなかった。
度重なる調教と、世界からの完全な断絶の果てに、彼の脳は生き延びるために、美咲の歪んだ愛を『唯一の真実』として受け入れることを選択してしまったのだ。
美咲は彼のその言葉を聴くと、今までにないほど恍惚とした、狂おしいまでの歓喜の涙をその瞳に浮かべた。
「ああ、大輔さん……! やっと、やっと分かってくれたんですね! 私たち、これで本当に、一つになれたのね……!」
美咲は高橋の胸に顔を押し付け、激しく泣きじゃくった。




