第4話:不協和音
金曜日の夜、高橋大輔を見送ったあとの自室は、信じられないほど冷え切っているように感じられた。
相原美咲は、ワンルームマンションのベッドの真ん中に体育座りをし、スマートフォンの放つ青白い光の中に没頭していた。カーテンは閉め切られ、部屋の明かりは一切つけられていない。液晶画面の光だけが、彼女の生気を失った瞳と、固く結ばれた唇を不気味に浮かび上がらせていた。
「高橋大輔……だいすけ……Daisuke……」
美咲の指先が、検索スロットの上をせわしなく動く。Instagram、X(旧Twitter)、Facebook、あらゆるSNSの検索窓に、彼の名前や、彼が会社で漏らしていた趣味のキーワードを打ち込んでいく。
高橋は会社では「SNSは見る専門で、自分ではほとんど投稿しないよ」と言っていた。だが、そんな言葉を美咲は鵜呑みにはしない。人間には必ず、誰かに自分を認めてほしいという欲求がある。完璧に見える高橋大輔にも、必ずどこかにプライベートの足跡が残されているはずだった。
「見つけた……」
検索を始めてから実に四時間が経過した午前二時過ぎ、美咲の指がピタリと止まった。
アカウント名は本名ではなく、彼の愛車の車種と誕生日の数字を組み合わせた英数字。アイコンは、どこかの山頂から見下ろした美しい景色の写真だった。会社で彼が「数年前に登山にハマった時期があってさ」と話していたエピソードと、車種が完全に一致する。
美咲は狂ったように、そのアカウントの過去の投稿を遡り始めた。
投稿の数はそれほど多くない。数ヶ月に一度、お気に入りのカフェのコーヒーや、新しく購入したという革靴の画像がアップされている程度だった。どれもシンプルで清潔感があり、いかにも高橋らしいタイムラインだった。
しかし、美咲の目的は彼の日常を眺めることではない。あの金曜日の夜、ロック画面に現れた『香織』という女の正体を突き止めることだ。
美咲は高橋の投稿の一枚一枚を、スマートフォンの画面を二本の指で限界まで拡大しながら凝視した。
お洒落なカフェのテーブルを写した写真。一見すると、コーヒーカップが一つだけ置かれているように見える。しかし、美咲の目は騙せなかった。カップの奥、ガラス窓に微かに反射している人影――そこには、長い髪をした女性のシルエットが写り込んでいた。
さらに別の投稿。新しく買ったという腕時計を自慢する彼の腕の写真。その背景に写り込む木製テーブルの向かい側に、明らかに女性のものと分かる、小さくて白いハンドバッグのストラップが端の方に数ミリだけ映り込んでいた。
「この女だ……。この女が、先輩の隣にいるんだ」
美咲の胸の奥から、煮えくり返るような嫉妬と憎悪が湧き上がってきた。
高橋が投稿につけている「いいね」のリストをすべて洗い出す。その中から、毎回必ず最初に「いいね」を押している、非公開ではない女性のアカウントを特定した。プロフィールには『Kaori』の文字。間違いない。あの通知の主だ。
香織のアカウントは、高橋のものとは違って頻繁に更新されていた。美咲は貪るようにそのタイムラインをスクロールした。
そこには、高橋のSNSには決して登場しない「二人の時間」が大量に転がっていた。
『大切な人と記念日ディナー』というキャプションとともに添えられた、高級レストランの料理の写真。画面の端には、見覚えのあるストライプ柄のネクタイを締めた男性の胸元が写っている。美咲がノートに記録している、高橋が勝負どころのプレゼンで必ず着用するネクタイだった。
『彼がサプライズでプレゼントしてくれたネックレス。一生大切にするね』という投稿には、嬉しそうに微笑む上品な美人の写真。年齢は高橋と同年代だろうか。他部署の人間だという噂通り、社内の受付で見かけたことのある顔だった。
「どうして……どうしてこの女なの?」
美咲の視界が、怒りで真っ赤に染まる。
高橋が香織に向ける笑顔、高橋が香織のために選んだプレゼント、高橋が香織と過ごす金曜日の甘い夜。そのすべてが、美咲にとっては「自分が手に入れるはずだった未来」だった。
美咲はベッドから起き上がり、部屋の壁に貼られた大きなコルクボードに向き合った。そこには、会社でこっそり印刷した高橋の顔写真や、彼がゴミ箱に捨てたメモ用紙の切れ端などがピンで留められている。
美咲はカバンからペンを取り出すと、香織の顔写真をスマートフォンの画面越しに凝視しながら、手元のノートにその名前を深く、紙が破れるほどの筆圧で書き殴った。
「香織……香織、香織、香織、香織、香織、香織……!」
ノートの一ページが、その二文字で埋め尽くされていく。
美咲の頭の中で、不協和音が鳴り響いていた。自分はこれほどまでに高橋を愛し、彼のすべてを理解し、毎朝最高のコーヒーを淹れて待っているのに。彼はなぜ、会社の一歩外側で、こんな軽薄そうな女と愛を囁き合っているのか。
「先輩は、騙されているだけ。あの女が、先輩を誘惑して惑わせているのよ。私が、先輩を助けてあげなきゃ……」
歪んだ論理が、美咲の脳内で真実として固定されていく。
彼女の中で、ストーカー行為は「犯罪」ではなく、愛する人を悪い女から救い出し、正しい場所へと導くための「聖戦」へと昇華した。
外では、夜明けを告げる鳥の声が聞こえ始めていた。一晩中眠ることもなく画面を見つめ続けた美咲の顔は、酷く青白く、目の下には濃い クマができていた。しかし、その瞳だけは、獲物を見つけた肉食獣のように、爛々と怪しい光を放っている。
月曜日になれば、また会社で高橋に会える。
美咲はスマートフォンを握りしめ、冷たいベッドの中に潜り込んだ。次に彼に会う時、自分は今まで通りの「優秀な後輩」を演じながら、裏でこの不快なノイズを排除するための計画を始めよう。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、美咲の狂気を静かに照らし出していた。




