第3話:冷たい境界線
一週間の中で、金曜日のオフィスの空気は最も軽い。午後四時を過ぎる頃には、フロアのあちこちから「今夜どこに行く?」といった、週末を待ちわびるプライベートな会話が聞こえ始める。
しかし、相原美咲にとっての金曜日は、一週間で最も憂鬱で、最も緊張する時間だった。なぜなら、土日の二日間、大好きな高橋大輔に会えなくなるからだ。四十八時間もの間、彼の姿を見られず、彼の声も聞けない。その空白の時間を埋めるため、美咲はある決意を固めていた。
(今夜こそ、先輩を食事に誘う。二人きりで、会社以外の場所で会うの。そうすれば、私たちの関係はもっと進展するはず……)
美咲は自分の引き出しから、小さな鏡を取り出して顔を映した。入念にメイクを直し、リップを塗り直す。鏡の中の自分に向かって、一番可愛らしく見える角度で微笑みかけてみる。準備は完璧だった。
午後六時。定時を告げるチャイムが鳴り、社員たちが次々と帰り支度を始める。高橋はというと、デスクの上の書類を整理し、パソコンをシャットダウンしているところだった。今夜は残業をしないらしい。
美咲は胸の鼓動が高鳴るのを抑えながら、すっと席を立ち、高橋のデスクへと歩み寄った。手には、彼がいつも使っているクリアファイルを持っている。用事を作るための口実だった。
「高橋先輩、お疲れ様です。こちらの資料、確認が終わりましたのでお返ししますね」
「あ、相原さん。ありがとう。助かったよ、これで今週の仕事は全部片付いたな」
高橋はファイルを受け取り、カバンに仕舞いながら、いつも通りの爽やかな笑顔を浮かべた。その笑顔を見て、美咲は一歩、彼との距離を縮めた。オフィスの通路で、二人の距離が三十センチほどになる。
「あの……高橋先輩。もし、もしよろしければなんですけど……。今夜、この後お時間はありますか? 最近、新しく入ったプロジェクトのことで、少し先輩に相談したいことがあって……。もしよかったら、近くの居酒屋でも、どこでも、ご一緒させていただけないかなって……」
美咲は上目遣いで高橋の顔を見つめた。心臓が破裂しそうなほど激しく打っている。自分の人生のすべてを賭けた、最大のアプローチだった。
しかし、高橋の反応は、美咲の期待とは正反対のものだった。
「あー、ごめん! 相原さん。せっかく誘ってくれたのに、本当に申し訳ないんだけど、今夜はちょっと外せない先約があるんだよね」
高橋は眉を下げて、本当に申し訳なさそうな表情を作った。その言葉を聞いた瞬間、美咲の脳内が一瞬で真っ白になった。
(先約……? 金曜日の夜に、私以外の誰かと会うの……?)
「……そう、なんですね。お忙しいのに、急に誘ってしまってすみません」
美咲は必死に顔の筋肉をコントロールし、いつもの「物分かりの良い後輩」の笑顔を貼り付けた。しかし、指先は小刻みに震え、爪が手のひらに深く食い込んでいた。
「いやいや、こちらこそごめんね。来週の頭でよければ、ランチの時間にでもゆっくり相談に乗るからさ。気にしないで」
高橋はそう言いながら、デスクの上に置いていたスマートフォンに手を伸ばした。その時、スマートフォンの画面が、新着メッセージの受信を知らせて、パッと明るく灯った。
高橋は無意識に、画面を隠すようにスマートフォンを裏返してポケットに仕舞おうとした。しかし、高橋の三歩後ろから彼のすべてを監視していた美咲の目は、その一瞬、わずか一秒に満たない発光を見逃さなかった。
美咲の網膜に、その画面の光景が焼き付く。
ロック画面に表示されていたのは、人気のあるメッセージアプリのポップアップ通知だった。送り主の名前は『香織』。そして、名前の横には、ピンク色のハートの絵文字が二つ、並んでいた。
メッセージの冒頭には、短い一言だけが見えた。
『今向かってるよ! 楽しみにしてるね』
ドクン、と美咲の心臓が冷たく波打った。
(香織……? ハートマーク……? 楽しみに、してる……?)
頭の中の歯車が、ものすごい速さで逆回転を始める。高橋が楽しそうにカバンを肩にかけ、「じゃあ、お疲れ様! 良い週末を!」と言ってオフィスを出ていく姿が、まるでスローモーションのように見えた。
高橋が去った後、美咲は自分のデスクに力なく崩れ落ちた。フロアの他の社員たちの笑い声や、帰宅を急ぐ足音が、すべて遠くの雑音のように聞こえる。
美咲の心の中にあった、ピンク色の甘い妄想は、一瞬にしてどす黒い漆黒の感情へと塗りつぶされていった。高橋には、自分以外の、プライベートを共有する特別な女性がいる。それも、金曜日の夜を一緒に過ごすような、親密な関係の女性が。
「嘘よ……そんなの、絶対に嘘」
美咲は誰もいないデスクの下で、低く、掠れた声で呟いた。
彼女の手は、デスクの上のペンを握りしめていた。パキ、とプラスチックのケースがきしむ音がするほど、強い力がこもっていた。
高橋にとって、美咲は一線を越えることのない「会社の部下」という境界線の向こう側にいる存在だった。彼はその境界線を守るために、優しく、そして冷たく美咲を拒絶したのだ。
しかし、美咲の中で、その境界線は完全に破壊された。
「先輩にそんな女は似合わない。先輩の隣にいるべきなのは、毎日一番近くで支えている、私だけなのに」
美咲の瞳から、生気が消えていく。代わりに宿ったのは、常軌を逸した、鋭く濁った執着の光だった。
この日、相原美咲の中の「ただの片思いの後輩」は死んだ。そして、高橋大輔のすべてを支配し、自分の檻の中に閉じ込めるための、孤独なストーカーとしての第一歩が、静かに、しかし確実に始まったのである。




