第2話:ただの「優秀な後輩」
午前九時。始業を告げるチャイムが鳴ると同時に、オフィスは一気に騒がしくなる。電話のコール音、キーボードを叩く無数の音、そして行き交う社員たちの足音。その喧騒の中で、相原美咲は自分のデスクに座りながら、三つ隣の席にいる高橋大輔の姿をじっと観察していた。
美咲の視線の先で、高橋はすでにジャケットを椅子の背もたれにかけ、腕まくりをして熱心にパソコンに向かっている。その引き締まった前腕の筋肉や、浮き出た血管を見るだけで、美咲の胸の奥はキュンと締め付けられるように熱くなった。
「ねえ、相原さん。これ、今週の営業報告書のデータなんだけど、まとめておいてもらえる?」
隣の席の先輩社員から声をかけられ、美咲はハッと我に返った。「あ、はい! かしこまりました」と愛想の良い返事をして資料を受け取る。美咲は社内での評価が非常に高かった。頼まれた仕事は完璧にこなし、ミスもほとんどない。いつも笑顔で、誰に対しても親切。それが、彼女が何年もかけて作り上げてきた「表の顔」だった。
なぜ、そこまで完璧な後輩を演じるのか。理由はただ一つ。高橋大輔という男の視界の中で、常に「特別に優秀で、信頼できる存在」であり続けるためだ。
美咲は自分の仕事を電光石火の速さで片付けながら、頭の片隅で常に高橋の動向を追いかけていた。彼が席を立つタイミング、引き出しを開ける音、誰とどんなトーンで話しているか。美咲の耳は、オフィスの雑音の中から高橋の声だけを正確に拾い上げることができる。
『あ、高橋先輩、今からA社に電話するみたい。……あ、来週の火曜日にアポイントが取れたんだ。メモしなきゃ』
美咲はデスクの下、他からは見えない位置に置いたスマートフォンを取り出し、予定表アプリに素早く文字を打ち込んだ。そこには、高橋自身のスマートフォンにも残っていないかもしれないほど詳細な、彼の行動履歴と未来のスケジュールが記録されている。
午後一時。少し遅めの昼食から戻ってきた高橋は、少し疲れた様子で自分のデスクに座り、こめかみを指で揉んでいた。今日の東京は朝からどんよりとした曇り空で、午後になってついに雨が降り始めていた。低気圧のせいか、彼の体調があまり良くないことを、美咲は彼の呼吸の深さから察知していた。
(先輩、お疲れみたい……。今が、私の出番)
美咲は席を立ち、再び給湯室へと向かった。いつものように、高橋の好む黄金比率――微糖で、温度は少しぬるめのコーヒーを淹れる。しかし、今日はそれだけではなかった。美咲はポケットから、小さな市販のハーブティーのティーバッグを取り出した。
「コーヒーもいいけど、リフレッシュにはこれが一番ですよね」
美咲は誰もいない給湯室で、一人きりで不気味な笑みを浮かべた。高橋が以前、「最近ちょっと寝不足で、頭が痛い時があるんだよね」と他の同僚にこぼしていたのを、美咲の耳は見逃していなかった。
淹れたてのコーヒーと、リラックス効果のあるミントのタブレットを小さな小皿に乗せて、美咲は高橋のデスクへと歩み寄った。
「高橋先輩、お疲れ様です。少し休憩にしませんか? 淹れたてのコーヒーです」
高橋は顔を上げ、美咲を見ると、ふっと張り詰めていた表情を緩めた。
「ああ、相原さん。ありがとう。ちょうど頭がぼーっとしてきて、温かいものが欲しかったんだ。いつも本当に気が利くね」
高橋はマグカップを受け取り、一口すする。その瞬間、彼の表情が美味しそうに綻んだ。その顔を見るだけで、美咲の脳内には甘い快感が走る。
「それと、これ。もしよかったらどうぞ。頭がすっきりするタブレットです」
「お、至れり尽くせりだね。相原さんは本当に優秀な後輩だよ。将来、相原さんと結婚する人は幸せだろうな」
高橋は何気ない冗談のつもりで、いつもの爽やかな笑顔を向けた。彼にとっては、職場の有能なアシスタントに対する、最大限の褒め言葉のつもりだったのだろう。
しかし、その言葉は美咲の歪んだフィルターを通過することで、全く別の意味へと変換された。
(結婚……? 先輩は今、私との結婚を意識してその言葉を言ったの? そうよね、先輩にとって、私以上に居心地の良い女性なんて他にいるはずがないもの)
美咲の胸は激しく高鳴り、頬が赤く染まっていく。彼女は自分の指先をぎゅっと握りしめ、溢れ出そうになる妄想を必死に抑え込んだ。
「そんな……滅相もないです。私は、高橋先輩のお役に立てるだけで、本当に幸せですから」
「ハハ、そう言ってもらえると助かるよ。じゃあ、この後の会議の資料、ちょっと確認してもらってもいいかな?」
「はい! 喜んで!」
美咲は高橋から書類を受け取り、自分のデスクに戻った。
書類に並ぶ高橋の手書きの修正文字。少し右上がりの、力強いフォント。美咲はその文字を指先でそっとなぞった。まるで、彼の肌に直接触れているかのような錯覚に陥る。
「先輩は私のことを『優秀な後輩』って言った。それは、他の誰よりも私を見ているっていう証拠……」
美咲はノートにまた一つ、新しい記録を書き加えた。
『〇月〇日。大輔さんから「結婚」というワードが出る。私との未来を想像している可能性極めて高し』
高橋にとって、美咲はただの便利な部下であり、一歩会社を出れば思い出すこともない「他人」だった。しかし美咲の頭の中では、すでに二人は相思相愛の恋人同士であり、結婚へと向かうロードマップの上を歩んでいることになっていた。
夕方、外の雨は一段と激しさを増していた。窓ガラスを叩く雨音を聞きながら、美咲は高橋の背中を見つめ続ける。彼が自分をただの「後輩」という檻の中に閉じ込めている限り、美咲はその檻の隙間から、彼のすべてを観察し、収集し、自分のものにしていくつもりだった。
この時、高橋は大輔はまだ知る由もなかった。自分が何気なく口にした優しい言葉のすべてが、目の前の大人しい後輩の心の中で、恐ろしい執着の燃料へと変わっているという事実を。そして、彼女の視線が、すでにただの「憧れ」の域を完全に超えているということを。




