第1話:完璧な先輩
朝のオフィスには、独特の匂いがある。まだ誰も触れていないコピー用紙の匂い、ブラインドの隙間から差し込む朝日に温められたデスクの埃、そして、誰かが持ち込んだ淹れたてのコーヒーの香り。
相原美咲は、毎朝午前七時三十分には必ず自分のデスクに座っていた。始業時間は九時。いくらなんでも早すぎるその登社時間は、勤勉だからでも、仕事が山積みだからでもない。ただ、彼を迎えるための完璧な準備を整えるため、その一瞬のためだけに彼女は早起きを続けていた。
美咲の手元には、小さな卓上カレンダーと、鍵付きの引き出しに隠された一冊のノートがある。ノートの表紙には何も書かれていないが、中には細かな文字で、ある一人の男性に関するデータがびっしりと書き込まれていた。
『高橋大輔。営業部主任。三十歳。血液型A型。ネクタイは青系を好む。コーヒーは微糖。出勤時間は毎朝午前七時五十分から五十五分の間――』
カチリ、とオフィスの自動ドアが開く音が静まり返ったフロアに響いた。美咲の心臓がトクン、と大きく跳ねる。時計の針は午前七時五十二分を指していた。予測通り、寸分の狂いもない。
「あ、相原さん。おはよう。早いね、いつも」
コートを片手に、爽やかな笑顔を浮かべて入ってきたのは、営業部のエースである高橋大輔だった。仕立ての良いスーツをスマートに着こなし、寝癖一つない髪からは、清潔感のあるシトラスの香水が微かに漂っている。彼は誰もが認める優秀な営業マンであり、その端正な顔立ちと、誰にでも分け隔てなく接する優しい性格から、社内のあらゆる部署にファンが存在していた。もちろん、美咲もその中の一人――いや、彼女にとっては「ファン」などという軽い言葉で片付けられる存在ではなかった。
「おはようございます、高橋先輩。今日も早いですね」
美咲は努めて冷静に、毎朝鏡の前で練習している「理想的な後輩の笑顔」を作って見せた。声のトーンは少し高めに、だけど馴れ馴れしくなりすぎないように。
「うん、今週中にまとめなきゃいけない企画書があってさ。静かなうちに片付けようと思って。相原さんも、あまり無理しちゃダメだよ? 先週も残業が多かったって、課長が心配してたから」
高橋はそう言いながら、美咲のデスクの横を通り過ぎ、三つ隣にある自分の席へと向かった。通り過ぎる瞬間に、彼の衣服から香るシトラスの匂いが美咲の鼻腔をくすぐる。彼女はその空気を、胸いっぱいに深く吸い込んだ。細胞の一つ一つに高橋の成分が染み渡っていくような、奇妙な全能感に満たされる。
「ありがとうございます。でも、高橋先輩のお手伝いができるなら、私、全然平気ですから」
美咲の言葉に、高橋は荷物をデスクに置きながら「頼りにしてるよ」と、いつもの眩しい笑顔を返した。
ただの社交辞令。ビジネスライクな会話。それは美咲にも分かっていた。しかし、高橋が自分に向けてくれた言葉、自分を見つめてくれたその数秒間だけで、彼女の頭の中は麻薬を与えられたかのように幸福感で満たされるのだった。
高橋が自分の席に座り、パソコンを起動する音が聞こえ始める。美咲はすかさず席を立ち、給湯室へと向かった。
ここからが、彼女の朝の「本番」だった。
給湯室に入ると、美咲は素早く周囲を見回し、誰もいないことを確認した。それから、棚の奥に隠してある高橋専用のマグカップを取り出す。そのカップは、数ヶ月前の彼の誕生日に、部署のメンバー全員でプレゼントしたものだった。本当は自分一人からの贈り物を渡したかったが、関係性を怪しまれないために、あえて「みんなから」という形をとったのだ。
美咲は慣れた手つきでコーヒー豆を挽き、丁寧にドリップしていく。温度は、高橋がすぐに口をつけられるように、少しぬるめの七十五度に設定する。そして、スティックシュガーを正確に半分。これ以上でもこれ以下でもいけない。高橋が最も「美味い」と感じる黄金比率を、美咲は過去の彼の細かな呟きから完璧に導き出していた。
出来上がったコーヒーをトレイに乗せ、美咲はゆっくりとフロアに戻った。高橋はすでに真剣な表情で画面に向き合い、キーボードを叩いている。その横顔は芸術品のように美しく、美咲は不意に息をすることを忘れてしまいそうになった。
「高橋先輩、コーヒーを淹れました。もしよろしければ、どうぞ」
「え? ああ、ありがとう相原さん。ちょうど温かいものが飲みたかったんだ」
高橋は画面から目を離し、美咲からマグカップを受け取った。その際、彼の指先が、美咲の親指の付け根にほんの少しだけ触れた。ほんの一瞬、わずか零点何秒の出来事。
「……!」
美咲の背中に電流が走った。触れた部分が、カッと熱くなる。高橋は何事もなかったかのようにカップを口に運び、一口含むと、「うん、美味しい。やっぱり相原さんの淹れるコーヒーは最高だな」と言って微笑んだ。
その言葉、その表情、そして指先が触れ合った感触。美咲にとって、それは世界が反転するほどの衝撃だった。
(先輩も、私と同じことを感じてくれたのかな……?)
美咲の脳内で、都合の良い妄想が急速に膨らんでいく。彼は私を特別に思っている。だから、私の淹れるコーヒーをいつも褒めてくれる。私たちがこうして毎朝早くに二人きりで過ごしているのは、運命がそうさせているからだ。
美咲は自分の席に戻り、高橋の背中をじっと見つめた。
高橋にとって、相原美咲は「気が利く優秀な事務の後輩」に過ぎない。しかし、美咲の濁った瞳に映る高橋は、すでに「自分だけのもの」になりつつあった。二人の間に横たわる、決して交わることのない境界線。美咲はその線が、自分の足元で少しずつ融解し始めているのを、確かに感じていたのだった。




