第39話:家畜の目覚め
ジャラ……、ジャラリ。
冷たい鉄が擦れ合う微かな音が、静まり返った暗闇の中に響いた。高橋大輔は、その音の正体が自分の右手首を締め付けている金属の輪であると思い出した瞬間、猛烈な悪寒とともに目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたはずのベージュ色の天井ではなかった。カーテンが隙間なく閉め切られ、昼か夜かも分からない薄暗いワンルームの景色。そして、右手を少しでも動かそうとするたびに、ボルトで床に固定された重厚なスチール製のベッドフレームから、逃れようのない金属音が鳴り響き、彼の肉体と精神を現実へと引き戻した。
「目覚めましたか、大輔さん」
すぐ傍らから、あまりにも聞き慣れた、そして今や世界で最も恐ろしい少女の声が降ってきた。
高橋が恐怖に身体を強張らせながら横を向くと、そこには丸椅子に腰掛けた相原美咲が座っていた。今日の彼女は会社が休みなのか、お洒落な花柄のワンピースを着て、膝の上で両手を揃え、まるで恋人の寝顔を愛おしそうに見守る少女のような、純粋で美しい笑顔を浮かべていた。
しかし、その手には、高橋が心療内科で処方されていた抗不安薬のシートと、一本のプラスチック製のスプーンが握られていた。
「ひっ……!」
高橋は条件反射的に身体をのけぞらせ、ベッドの壁際へと逃げようとした。しかし、右手首を拘束している手錠の鎖が限界まで張り詰め、ガチンと鈍い音を立てて彼の動きを止めた。手首の皮膚が鉄に擦れ、じわじわと焼けるような痛みが走る。
「嫌だ……離してくれ、美咲ちゃん。お願いだ……僕が何をしたっていうんだよ。頼むから、これを外して、ここから出してくれ……!」
高橋は涙をボロボロと流しながら、なりふり構わず懇願した。かつて社内のあらゆる人間から羨望の眼差しを向けられていた営業のエースのプライドなど、この冷たい鉄格子の前では何の意味もなさなかった。今の彼は、ただ生きてここから出たいと願う、哀れな被害者でしかなかった。
美咲は高橋のその悲惨な足掻きを、まるでお気に入りのペットがじゃれているのを眺めるかのような、穏やかで優しい瞳で見つめていた。
「大輔さん、そんなに暴れたら手首が傷ついてしまいますよ? 私、大輔さんの綺麗な身体に傷がつくの、とっても悲しいんです。だから、静かにしてくださいね」
美咲は立ち上がり、ベッドの横に置かれていたトレイを持ち上げた。そこには、温かい湯気を立てるスープと、丁寧に小さくカットされたパンが並んでいた。
「さあ、お腹が空いたでしょう。大輔さんのために、栄養バランスを完璧に計算して、じっくり煮込んだ特製のポトフを作ったんです。大輔さんは何も持たなくていいですよ。私が、優しく食べさせてあげますからね」
美咲はベッドの縁に腰掛け、スプーンでスープを掬うと、高橋の口元へと差し出した。
「食べたくない……! 嫌だ、食べない! 警察を呼んでくれ、誰か助けて……!」
高橋が狂ったように首を振り、拒絶の声を上げた。その瞬間、美咲のスプーンがピタリと止まった。彼女の顔から笑顔が綺麗に消え去り、瞳の奥に、凍りつくような冷徹な深淵が顔をのぞかせた。
「大輔さん」
彼女の声のトーンが、一オクターブ低くなる。
「警察なんて来ませんよ。あなたのスマートフォンは私が解約して、完全に処分しました。会社には、あなたのご家族の名義で『精神的な病気が悪化したため、しばらく実家に戻って長期の療養に入ります。探さないでください』という詳細な退職届と診断書(偽造したもの)を郵送してあります。あなたの実家のご両親には、あなたのアカウントから『しばらく海外のプロジェクトに参加することになったから、連絡が取れなくなる』って、定期的にメッセージを送ってあります。……つまりね、大輔さん。この世界の中で、あなたという人間が今どこにいるかを知っているのは、私だけなんです」
美咲は再び、いつものおっとりとした笑顔に戻り、スプーンを彼の唇に押し付けた。
「あなたは、社会的にはもう『存在しない人間』なんです。だから、無駄な声を上げて喉を痛めないでくださいね。ほら、あーんして」
その言葉を聞いた瞬間、高橋の脳内は完全な絶望によって真っ白に染まった。
自分をこの世界に繋ぎ止めていたあらゆるロープが、彼女の手によって完璧に、一本残らず切断されていた。自分がここで叫ぼうが、泣こうが、誰にも届かない。この部屋こそが、自分の人生の終着駅なのだ。
高橋は、絶望の涙をボロ切れのように流しながら、ゆっくりと口を開けた。
美咲の差し出したスープが、彼の口内に流れ込む。それは驚くほど美味で、コクがあり、完璧な味付けだった。しかし、それを飲み込む高橋の胸には、自分が完全に彼女の家畜として飼育され始めたという、圧倒的な屈辱と恐怖だけが、どす黒く居座り続けるのだった。




