第37話:深淵の引き戻し
エントランスのガラスドアに映る自分の顔は、恐怖と絶望で見る影もなく歪んでいた。高橋大輔の足の裏は、冷たいタイルの上で感覚を失いかけている。背後から近づいてくる、パタパタという不自然に軽いスリッパの足音。それが自分のすぐ後ろでピタリと止まった。
「お外は寒かったでしょう、大輔さん。靴も履かないで飛び出すなんて、本当に危ないですよ」
相原美咲の声が、高橋のうなじのすぐ後ろから聞こえた。その声には、怒りや焦りの色はひとかけらも混ざっていなかった。まるで、公園で迷子になった幼い我が子を優しく見つけた母親のような、気味の悪いほどの平穏が満ちていた。
高橋は全身をガタガタと震わせながら、ゆっくりと振り返った。
間接照明の薄暗い光の中で、美咲はいつもの寝巻き姿のまま立っていた。その右手には、このマンションの深夜セキュリティを解除するための、小さな真鍮の鍵が握られている。彼女の瞳は、底知れない沼のように黒く澄んでおり、その奥には、獲物の無駄な足掻きを最初から楽しんでいたかのような、残酷な愉悦の光がドロドロと渦巻いていた。
「美咲……ちゃん……」
高橋の口から、掠れた声が漏れる。彼はエントランスの冷たい壁に背中を押し付け、少しでも彼女から距離を取ろうとした。しかし、この強固なガラスの檻の中に、逃げ場などどこにもなかった。
「どうして……どうして君が、僕の部屋の鍵の複製キットなんて持っているんだ? どうして、僕の部屋に盗聴器やカメラを仕掛けたんだよ……!」
高橋は、胸の奥に溜まっていた恐怖を吐き出すように叫んだ。彼の声は静まり返ったロビーに虚しく響き渡る。
美咲はその問いを聞いた瞬間、驚いたように小さく目を見開き、それから、本当に嬉しそうに、クスッと声を立てて笑った。
「あら……。引き出しの奥の明細書、見ちゃったんですね。大輔さん、お薬のせいで頭がぼんやりしていると思っていたのに、そんなところまでお掃除してくれたなんて、やっぱり私の大輔さんは優秀ですね」
美咲は一歩、高橋へと歩み寄った。高橋は思わず息を呑む。
「……全部、君の仕業だったんだな。香織に嫌がらせをしたのも、渡辺先輩を疑わせたのも、僕を会社で腫れ物みたいにしたのも。全部、全部、僕をあの部屋から追い出して、ここに閉じ込めるために、君が裏で仕組んだことだったんだろ!」
「仕組んだ、だなんて人聞きが悪いですよ」
美咲は小首をかしげ、天使のような無垢な笑顔を浮かべた。
「私はただ、大輔さんの周りにいる、目障りで汚いゴミをお掃除してあげただけです。あの吉川香織っていう女も、大輔さんの価値を分かっていない会社の有象無象たちも、大輔さんを傷つけるだけの害虫だったでしょう? だから、私が全部綺麗に排除してあげたんです。大輔さんが、世界で一番安全な場所で、私だけの愛に包まれて生きられるように」
「狂ってる……君は、完全に狂っているよ……!」
高橋の叫び声に、美咲の笑顔がふっと消えた。彼女の瞳から生気が消え去り、代わりに凍りつくような冷徹な光が宿る。
「狂っているのは、外の世界の方です。これほどまでに大輔さんを愛し、24時間すべての行動を把握して、体調管理までしてあげている私を拒絶して、あんな偽物の世界に戻ろうとするなんて……。大輔さん、あなたはまだ、自分がどれほど恵まれているか分かっていないみたいですね」
美咲は手の中の鍵をポケットに仕舞うと、今度は躊躇することなく、高橋の細くなった両腕を強く掴んだ。その小さな身体からは想像もつかないほどの、異常なまでの強い力が、高橋の皮膚をきしませる。
「さあ、お部屋に帰りましょう、大輔さん。今夜のことは、悪い夢だったことにすればいいんです。私は優しいですから、大輔さんが静かに檻に戻ってくれるなら、何もお仕置きなんてしませんから」
「放せ……放してくれ!!」
高橋は必死に腕を振り払おうとしたが、裸足で床を滑り、衰弱した肉体にはもう、彼女の狂気的な力に対抗するだけのエネルギーは残されていなかった。高橋は美咲に引きずられるようにして、再びエレベーターの暗闇へと連れ戻されていった。
彼が命を懸けて踏み出した脱出のステップは、完全に潰された。エレベーターの扉が閉まる瞬間、高橋の視界から外の世界の光が消え去り、彼は再び、逃げ場のない深淵の底へと引き戻されていくのだった。




