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歪んだ愛  作者: S.S
第六章 男性の恐怖と疑惑

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第36話:決死のステップ

深夜金曜日の午後十一時三十分。部屋の明かりが落とされ、間接照明の淡いオレンジ色の光だけがリビングの片隅を静かに照らしていた。

高橋大輔は寝室のベッドに入り、毛布を頭から被ったまま、目を閉じてリビングの動向をじっと伺っていた。美咲はいつものように、高橋が食後に手渡された睡眠導入剤によって完全に意識を失うのを待っていた。もちろん、高橋は今夜、薬を飲むフリをして舌の裏に隠し、彼女がキッチンへお水を汲みに後ろを向いた瞬間に、手の中のティッシュへと静かに吐き捨てていた。脳は驚くほど冴え渡り、生存本能によって研ぎ澄まされていた。

リビングからは、美咲が規則正しい呼吸音を立てて眠り始めた気配が伝わってきた。

彼女は高橋の横ではなく、リビングのソファに横たわって眠るのが常だった。高橋が完全に自分のものになり、逃げ出す気力さえ失っていると確信しているとはいえ、彼女自身も日中の仕事と夜の看病、そして24時間の監視によって、肉体的な疲労が限界まで溜まっているはずだった。

(今だ……。今を逃したら、僕は一生、この薄暗い部屋で、あの女の飼い犬として生きるおもちゃにされてしまう)

高橋は音を立てないよう、慎重に、慎重に毛布をめくった。

全身の筋肉が、緊張のあまり極限まで硬直している。彼は寝室からリビングへと、一歩一歩、絨毯の繊維を足の裏で確かめるようにして、音を完全に消して進んだ。

ソファの方を盗み見る。美咲は横を向き、小さな身体を丸めて完全に眠っていた。その手元には、いつも高橋の位置情報や部屋のカメラ映像を映し出していたスマートフォンが、画面を伏せて置かれていた。それを取り返したい衝動に駆られたが、触れた振動で彼女が目を覚ますリスクを恐れ、高橋は玄関へと直進した。

高橋は呼吸を止め、冷たい玄関のたたきへと足を踏み入れた。

目の前には、外の世界へと、人間の世界へと繋がる唯一の鉄の扉がある。高橋は恐る恐る手を伸ばし、真鍮のサムターン(つまみ)に触れた。

美咲の油断か、あるいは夜間の火災などの緊急事態を考慮してか、高橋の予測通り、あの強固なプラスチック製の鍵カバーは外されており、剥き出しのつまみがそこにあった。

(開く……。これを開ければ、僕は本当に助かるんだ……!)

高橋は指先にすべての力を込め、サムターンを左へとゆっくりと回した。

カチャリ。

静まり返ったワンルームの中に、錠前が解かれる金属音が、想像以上に大きく響き渡った。高橋の心臓が口から飛び出しそうなほど激しく跳ね上がる。彼は慌ててソファの方を振り返った。美咲の身体が、微かにピクリと動いたような気がして、全身の血の気が引いた。

しかし、もう引き返すことはできない。ここで立ち止まれば、待っているのは完全なる死だ。高橋はドアノブを強く握りしめ、手前に向かって一気に引き寄せた。

隙間から、夜の冷たい、しかし人工物ではない本物の外の空気が、高橋の顔に吹き込んできた。マンションの共有廊下の白い蛍光灯の光が、彼の視界を明るく照らす。

「出られた……!」

高橋は靴を履く時間さえも惜しみ、裸足のままで廊下へと飛び出した。

冷たいコンクリートの感触が足の裏にダイレクトに伝わるが、そんな痛みは全く気にならなかった。彼はエレベーターを待つ時間が恐怖だったため、非常階段の重い鉄扉を開け、一階へと向かって階段を狂ったように駆け下りていった。

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

一段、また一段と、狂気の檻から遠ざかっていく。

ついに一階のロビーへと辿り着き、ガラス張りのエントランスドアの向こうに、深夜の街路樹と自動販売機の光が見えた。あそこを出て、大通りに出さえすれば、自分は自由になれる。警察へ駆け込み、すべてをぶちまければ、あの悪夢のような日々は完全に終わるのだ。

高橋は自動ドアに向かって、最後の力を振り絞って足を踏み出した。

しかし、ガラスの大きなドアは、高橋が目の前に立っても、センサーが反応する音さえ立てず、ビクともしなかった。

「え……? なんで……開け、開いてくれ!!」

高橋は狂ったようにガラスの扉を手で叩き、横にあるタッチパネルを何度も連打した。だが、エントランスの液晶画面には『夜間セキュリティ作動中:解錠には専用の居住者キーが必要です』という冷徹な文字が赤く点滅しているだけだった。

この高級マンションのセキュリティは、深夜午前零時を過ぎると、内側からであっても鍵がなければ一階のロビーから外へ出られないという、超強固な防犯システムが採用されていたのだ。

高橋の頭の中が、一瞬にして真っ白になった。

カバンも、財布も、鍵も持たずに裸足で飛び出してきた彼には、この強固なガラスの壁を突破する術はどこにも残されていなかった。背後を振り返る。長い廊下の向こうは、暗闇が広がっている。

「どこへ行くんですか、大輔さん」

背後から、凍りつくような冷たい、しかしどこまでも甘い声が響いた。

高橋が絶望に震えながらゆっくりと振り返ると、非常階段の暗闇の向こうから、いつの間にか自分を追ってきていた相原美咲が、手の中に一本の『真鍮の鍵』を握りしめ、満面の笑みを浮かべてゆっくりと歩み寄ってくるところだった。その瞳には、獲物の逃亡を最初から予期して楽しんでいたかのような、底知れない狂気がドロドロと渦巻いていた。

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