第35話:静謐な晩餐
玄関の重厚なシリンダーが回り、金属同士が冷たく擦れ合う音が静まり返ったワンルームマンションに響き渡った。
高橋大輔は、リビングのソファの上で身体を丸め、深く、浅い呼吸を規則正しく繰り返していた。目は固く閉じ、意識のすべての神経を耳へと集中させる。彼にとって、この閉ざされた空間に入ってくる足音は、もはや自分を暗闇から救い出してくれた恩人のものではなかった。自分の人生を、尊厳を、そして肉体と精神のすべてを咀嚼し尽くそうとする、底知れない怪物の足音そのものだった。
「ただいま、大輔さん。今日もいい子で待っていてくれましたか?」
相原美咲の声がした。それは、どこまでも甘く、優しく、脳の芯を心地よく痺れさせるような、これまで高橋が何度も救われてきたお馴染みのトーンだった。しかし、彼女が裏で仕掛けていたすべての真実を、あの秋葉原の領収書という決定的な証拠から知ってしまった今の高橋にとっては、背筋に強烈な氷水を一気に流し込まれるような、激しい悪寒と嫌悪感を伴うものでしかなかった。
カサカサと、ビニール袋が擦れる音がする。美咲はリビングに入ってくると、真っ先にソファの傍らへと歩み寄り、高橋の顔を覗き込んできた。高橋は必死に顔の筋肉を弛緩させ、心療内科の強い薬によって完全に深く眠り込んでいる、無力で哀れな男を演じ続けた。
美咲の冷たい指先が、そっと高橋の頬に触れた。衣服からは、会社特有の埃の匂いと、あの代沢の部屋で高橋をパニックに陥れたものと全く同じ、あのフローラルな香水の匂いが、微かに、しかし確実に漂ってきた。
「本当にかわいい……。こうして私だけの檻の中で、私の作ったご飯を食べて、私だけを信じて生きていけばいいのよ、大輔さん。外の世界なんて、あなたを傷つける悪い人ばかりなんだから」
美咲は誰もいない部屋で、そう低く、愛おしそうに呟いた。
高橋は胸の中で激しく燃え盛る恐怖と、引き裂かれそうなほどの怒りを、爪が手のひらに深く食い込むほどの忍耐で押し殺した。彼女の言葉は、自分が「一人の人間」ではなく、彼女のコレクションの一部である「人形」として扱われていることを明確に示していた。
(全部……全部、この女の仕業だったんだ。香織を追い詰めたのも、渡辺先輩を疑わせたのも、僕を会社で孤立させたのも。全部、僕をこの部屋に閉じ込めるための罠だったんだ)
高橋の脳裏に、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。毎朝の完璧なコーヒーも、外回り先での奇妙な偶然の出会いも、すべては彼女がスマートフォンのGPSで自分を24時間監視し、完璧にコントロールしていた『仕組まれたシナリオ』のパーツに過ぎなかったのだ。
やがて美咲は満足したように身を引き、キッチンへと向かった。
手際よく包丁で野菜を刻むトントンという規則正しい音が響き始める。高橋は細く目をあけ、キッチンの陰にいる彼女の背中を、怒りと恐怖の混ざった瞳で見つめた。
(今夜だ……。今夜、この女が眠りについて、完全に油断した一瞬の隙を突いて、僕はここから飛び出す。二度と、この狂った部屋には戻らない)
高橋の計画はシンプルだった。美咲は毎朝、仕事に出かける際に玄関の特殊な鍵カバーを外側から施錠し、帰宅時にそれを解錠する。そして、夜の間は、高橋がパニックを起こして夜中に外に飛び出さないよう(と、かつて彼女は優しく説明していた)、鍵カバーは外された状態で、一般的なサムターンによる施錠だけがなされている。
つまり、美咲が部屋の中にいる夜間だけが、内側から自分の手で鍵を開けられる唯一のチャンスなのだ。窓はすべて潰されている。逃げ道は、あの玄関の鉄の扉しかなかった。
「大輔さん、お夕飯ができましたよ。今夜は、大輔さんの大好きなクリームシチューです。たくさん食べて、元気になってくださいね」
美咲が温かい湯気の立つ器を持ってリビングに戻ってきた。高橋はわざとらしくゆっくりと目をあけ、薬の影響で頭がぼんやりしているフリをしながら、小さく身体を震わせて見せた。
「あ……美咲ちゃん。お帰り……。ごめんね、また眠っちゃっていたみたいだ」
「いいんですよ、大輔さん。眠ることは、心が回復している証拠ですから。ほら、あーんして」
美咲はソファの横に膝をつき、スプーンにシチューを掬って高橋の口元へと運んだ。高橋は心の中で激しい吐き気を覚えながらも、ここで怪しまれるわけにはいかないと、そのシチューを大人しく口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。かつては涙が出るほど美味しいと感じていた彼女の手料理は、今やまるで猛毒を含んだ泥水を飲まされているかのように、不気味で無味乾燥なものに感じられた。
美咲の瞳は、高橋のすべてを自分の支配下に置いているという、絶対的な優越感と悦びで満たされていた。しかし、その完璧な観察眼をもってしても、目の前の男がすでに『正気』を取り戻し、自分を騙すための決死の演技をしていることには、まだ気づいていなかった。
「美味しいよ、美咲ちゃん。いつも、本当にありがとう」
「どういたしまして、大輔さん。私、大輔さんのためなら、なんだってできるんですよ?」
美咲は満面の笑みでそう言った。その笑顔の裏にある、底知れない狂気の深さに、高橋は背筋が凍るのを必死に耐えていた。密室の晩餐は、お互いに偽りの仮面を被ったまま、静かに、そして息苦しいほどの緊張感を孕んで進んでいった。高橋の時計の針は、決戦の深夜へと、一刻一刻と近づいていた。




