第34話:逃亡のロジック
玄関からの脱出が不可能であると知った高橋大輔は、リビングの床に座り込み、必死に頭を回転させていた。心療内科の薬のせいで鈍くなっていた脳細胞が、生存本能によって急激に覚醒していくのを感じていた。
(玄関が駄目なら、窓だ。ここは二階か、三階のはず……)
高橋はこの部屋に来て以来、一度も遮光カーテンを開けたことがなかった。美咲が「吉川香織が外から狙っているかもしれないから、絶対に開けないで」と強く言っていたからだ。当時はその言葉を信じ切っていたが、今思えば、外の世界と接触させないためのただの目隠しだった。
高橋は寝室の奥にある、ベランダへと続く大きな窓に向き合った。
カメラの死角になるよう、自分の身体を大きなクローゼットの影に隠しながら、そっとカーテンの端に手をかけた。
布地を数センチだけ、音を立てずに引く。
ブラインドの隙間から、久しぶりに見る本物の太陽の光が、高橋の細くなった顔を鋭く照らし出した。眩しさに目を細めながら、彼は外の景色を確認した。
ベランダの向こうには、静かな住宅街の通りが見えた。高さはおおよそ三階。飛び降りれば確実に骨折するか、最悪の場合は命を落とす危険のある高さだった。しかし、ベランダのすぐ横には、建物の外壁に沿って太い排水パイプが一本、地面へと伸びているのが見えた。
(あのパイプを使えば……運動神経には自信がある。伝って下に降りられるかもしれない)
高橋の胸に、小さな希望の光が灯った。
彼はサッシの鍵に手をかけ、ゆっくりと上に押し上げた。カチャリ、と軽い音がしてロックが外れる。
しかし、窓を横に滑らせようとした瞬間、わずか数センチ動いたところで、ゴン、と鈍い金属音がして窓が完全に止まってしまった。
「な……に?」
高橋は驚いて窓のサッシの上下を確認した。
窓枠のレール部分に、ネジで強固に固定された『サッシ用補助錠』が、いくつも取り付けられていた。それも、換気のために数センチだけ開く位置で、それ以上は絶対に開かないよう、完全に固定されていたのだ。ネジの頭は潰されており、ドライバーがあったとしても取り外すのは不可能な状態だった。
美咲の防犯への執念は、異常という他なかった。彼女は、高橋が万が一にも窓から外へ助けを求めたり、脱出したりすることを、最初から百も承知で防いでいたのだ。
隙間からは、下目黒の心地よい午後の風が吹き込んできた。しかし、その風は高橋にとって、自分が完全に世界の終わりに取り残されたことを告げる冷たい息吹でしかなかった。
(どこも開かない……。電話もない、スマホもない。僕は、ここでただ、あの女が帰ってくるのを待つしかないのか……?)
高橋は窓辺にへたり込み、絶望の涙を流した。
時計の針は午後四時を指していた。あと二時間もすれば、会社を定時で飛び出した相原美咲が、買い物袋を両手に下げて、いつもの聖母の笑顔でこの部屋に戻ってくる。そして、何事もなかったかのように手料理を作り、高橋の口元にスプーンを運び、あの甘い毒のような言葉で自分を洗脳していくのだ。
その光景を想像しただけで、高橋は全身に激しい悪寒が走った。
(嫌だ。そんなのは絶対に嫌だ。僕はモノじゃない。人間の、高橋大輔だ!)
高橋は必死に顔を叩き、涙を拭った。
まだ、諦めるには早すぎる。力づくでの脱出が無理ならば、美咲の「油断」を突くしかない。
彼女は自分のことを、完全に正気を失い、心療内科の薬に依存した、無力な人形だと思い込んでいるはずだ。ならば、その「無力な人形」を完璧に演じきり、彼女が鍵を開けるその一瞬の隙を突いて、正面から突破するしかない。
高橋は、窓の鍵を元通りに閉め、カーテンを寸分の狂いもないように閉じ直した。
そして、リビングのソファへと戻り、わざと身体を丸めて、深く、深い眠りに落ちているフリをした。
午後六時十五分。
高橋の予測通り、玄関のドアの外側から、ガチャガチャと鍵が解かれる音が静かな部屋に響き渡った。
高橋は目を閉じたまま、全身の筋肉を硬直させた。ついに、狂気の捕食者が、この檻へと帰ってきたのだ。




