第33話:沈黙の監視網
手の中にある秋葉原の精密機器専門店の領収書を見つめたまま、高橋大輔は呼吸の仕方を忘れてしまったかのように硬直していた。
窓を完全に塞ぐ遮光カーテンの向こうから、外の世界の音は一切聞こえない。静まり返ったワンルームマンションの部屋の中で、高橋の耳に届くのは、自分の肋骨の裏側で早鐘のようにけたたましく鳴り響く心臓の鼓動だけだった。
「美咲ちゃんが……全部、美咲ちゃんがやったのか……?」
喉の奥からせり上がってきたその言葉を、高橋は必死に飲み込んだ。
部屋の四隅に視線を走らせる。観葉植物の葉の隙間でパチパチと明滅する緑色のLED。エアコンの吹き出し口の薄暗い隙間。天井の火災報知器の奇妙な突起。そのすべてが、いまや生きた人間の濁った瞳のように高橋を見下ろしていた。
(この部屋だけじゃない。代沢の僕の部屋も、会社でのあの地獄のような日々も……すべて、彼女が僕をここに閉じ込めるために仕組んだシナリオだったんだ)
そう理解した瞬間、高橋の全身の毛穴から、おぞましいほどの冷や汗が吹き出した。
彼女は「唯一の味方」を演じながら、高橋が最も信頼していた先輩の渡辺を陥れ、社内の女性社員たちに嘘のセクハラ被害を触れ回り、高橋の社会的信用と居場所を完全に奪い去った。さらに、自分の部屋の鍵を複製して侵入し、香水の匂いや偽の手紙で高橋の正気を揺るがし、自らこの部屋へ逃げ込むように仕向けたのだ。
それは「片思い」などという生易しい言葉で表現できるものではなかった。高橋大輔という一人の人間の人生を、根こそぎ奪い取り、自らの所有物にするための、冷徹で完璧な『狩り』だった。
高橋はガタガタと震える手で、領収書の束を元の引き出しの奥深くへと戻した。一ミリのズレもないよう、慎重に他の書類の束の下に滑り込ませる。もし、自分がこの世界の真実に気づいたことを美咲に知られたら、その瞬間に何が起こるか分からない。
(逃げなきゃ……。今すぐに、ここから出ないと、僕は一生この女の飼い犬にされてしまう)
高橋はリビングの真ん中に立ち、玄関のドアへと視線を向けた。
美咲が会社に戻っている今のうちに、ドアを開けて外に飛び出せば、それで終わりのはずだった。スマートフォンは没収されているが、外に出さえすれば、交番に駆け込むことも、タクシーを拾って実家へ逃げることもできる。
高橋は足音を立てないよう、絨毯を踏み締めながら玄関のたたきへと進んだ。
胸の鼓動が限界まで高まる中、彼はドアノブに手をかけ、ゆっくりと回そうとした。
しかし、カチリともツマミが動かない。
「え……?」
高橋は顔をしかめ、ドアの鍵を確認した。内側からかけるためのサムターン(つまみ)に手をかける。
しかし、そのサムターンは、金属製の頑丈な『カバー』によって完全に覆い隠されており、素手で触れることさえできない状態になっていた。それは、認知症の徘徊防止や、内側からの解錠を防ぐために市販されている、特殊な鍵カバーだった。
高橋は息を詰め、カバーを力任せに引っ張ったが、強固な両面テープか接着剤で固定されているのか、ビクともしなかった。鍵を開けるには、外側から本物の鍵を差し込むか、内側から専用の解錠キーを使うしかない構造になっていた。
つまり、相原美咲が外から鍵をかけて出掛けた瞬間、このワンルームマンションは、内側から絶対に開けることのできない「完全なる密室」へと変貌するのだ。
「そんな……嘘だろ……」
高橋はドアに背中を預け、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
ここは避難所などではなかった。最初から、獲物を一歩も逃がさないために設計された、完璧な『ケージ(檻)』だったのだ。
高橋は天井のカメラを見上げた。自分が今、ドアの前で絶望し、怯えているこの姿も、会社にいる美咲のスマートフォンの画面にリアルタイムで映し出されているのだろうか。恐怖が頭頂部から爪先までを支配していく中、高橋は必死に理性をかき集めた。
(いや、まだだ。もし美咲ちゃんがスマホをずっと見ているなら、僕のこの行動を怪しんで、すぐに戻ってくるはずだ。でも、彼女はまだ戻ってこない。ということは、仕事中は常に画面を見ているわけじゃないんだ)
チャンスは、彼女が帰宅するまでのあと数時間。
高橋は涙を拭い、四つん這いになりながらリビングへと戻った。この密室から抜け出すための、別のルートを探さなければならなかった。




