第31話:甘い箱庭
世田谷区代沢の呪われたマンションを捨て、相原美咲の手に引かれて辿り着いた場所は、目黒区の閑静な住宅街に建つ、比較的新しいワンルームマンションだった。
高橋大輔にとって、その部屋のドアを潜り抜けた瞬間は、まるで激しい暴風雨の中から、頑丈で温かい地下シェルターへと滑り込んだかのような圧倒的な安堵感に満ちていた。部屋の中は、白と淡いベージュを基調とした、驚くほど清潔で整理整頓された空間だった。窓には遮光カーテンが隙間なく閉め切られ、外の世界のノイズ――自分を拒絶した会社の人々や、見えないストーカーである吉川香織の影――は、一ミリも届かないように守られていた。
「さあ、大輔さん。もう大丈夫ですよ。ここには、大輔さんを傷つけるものは何もありませんからね」
美咲はボストンバッグを床に置くと、高橋の冷え切った両手を優しく包み込み、母親のような慈愛に満ちた笑顔を向けた。
「あぁ……ありがとう、美咲ちゃん。本当に、助かった。僕は……僕はあそこにいたら、本当に頭がおかしくなって死んでいたかもしれない」
高橋はその場にへたり込むように座り込み、何度も深く息を吐き出した。彼の瞳からは、かつてのエリート社員の面影は完全に消え去り、ただ目の前の少女に全存在を委ねる、迷子の子供のような脆弱さだけが残っていた。
この日から、二人の奇妙な「同居生活」という名の、美咲にとっては至高の、高橋にとっては逃避の毎日が始まった。
美咲の看病と管理は、完璧の一言に尽きた。
彼女は毎朝、高橋が目を覚ます前に起き、栄養バランスを完璧に計算した温かい朝食を用意した。会社を無期限の休職手続き(これも美咲が裏で課長や人事と連絡を取り、書類をすべて代筆して処理した)にした高橋は、一歩も外に出る必要がなかった。
高橋がすることは、美咲が用意してくれたベッドの上で泥のように眠り、美咲が作った料理を食べ、美咲が手渡してくれる心療内科の薬を飲むことだけだった。彼が部屋の掃除をしようとしたり、洗濯物を畳もうとしたりすると、美咲は「大輔さんは傷ついているんですから、何もしなくていいんですよ。全部、私に任せてください」と言って、優しく彼をソファへと押し戻した。
高橋にとって、この部屋は自らの正気を守るための「甘い箱庭」だった。自分を陥れようとする渡辺や課長、自分を呪う香織の存在から完全に隔離された、世界で唯一の安全地帯。
しかし、美咲が会社へ出勤している間、高橋は一人でワンルームの空間に取り残されることになる。
最初の数日間は、ただひたすら眠ることで恐怖を忘れることができた。だが、一週間が経過し、薬の副作用による脳の霧が少しずつ晴れ始めてきた頃、高橋の心の中に、静かに、しかし確実に「奇妙な違和感」が芽生え始めていた。
それは、本当に些細な、顕微鏡で覗かなければ気づかないような、日常の綻びだった。
ある日、美咲が仕事に出かけた後、高橋はリビングのソファに座り、ぼんやりと部屋の壁を眺めていた。美咲は「テレビは壊れていて映らないの」と言っていたため、部屋には一切のエンターテインメントがなかった。スマートフォンも、「吉川香織から位置特定をされる危険があるから、一度電源を切って私のバッグに預けておきますね」と言われ、美咲に没収されていた。
外の天気がどうなっているのかさえ分からない閉ざされた空間。高橋はふと、リビングの隅にある、お洒落な観葉植物の鉢植えに目を留めた。
その葉の隙間、土のすぐ上の部分に、ごく小さな「緑色のLEDの光」が、数秒おきにパチパチと点滅しているのが見えたのだ。
高橋は眉をひそめ、ソファから立ち上がると、その鉢植えへと近づいていった。
「……なんだ、これ?」
彼が手を伸ばし、葉をかき分けようとしたその瞬間、玄関のドアの鍵がガチャリと激しい音を立てて開いた。時刻は午後一時。会社にいるはずの美咲が、息を切らせて部屋に入ってきたのだ。高橋はビクッと身体を震わせ、慌てて鉢植えから手を離した。




