第30話:奈落のシェルター
「美咲ちゃん! 助けてくれ、お願いだ、今すぐ僕の家に来てくれ!!」
スマートフォンのスピーカーから漏れる高橋大輔の声は、完全に理性を失い、泣き叫ぶ子供のようだった。相原美咲は、ベッドの上でその声を聴きながら、声のトーンをこれ以上ないほど緊迫したものに変えて応答した。
「大輔さん!? どうされたんですか、そんなに慌てて……。起きて何かあったんですか?」
「香織だ……香織が、僕の部屋に来たんだ! 部屋の中に彼女の香水の匂いが染み付いているし、パソコンに彼女からの手紙が貼ってあったんだ! 鍵は全部閉まっているのに! 怖い、怖いんだ、美咲ちゃん! もうこの部屋に一秒もいられない!!」
「分かりました、大輔さん! 今すぐ向かいますから、ドアの鍵をしっかりと閉めて、中で待っていてくださいね!」
美咲は通話を切ると、ベッドから飛び起きた。彼女の顔には、計画が寸分の狂いもなく最終段階へと向かっていることへの、圧倒的な歓喜の笑みが浮かんでいた。
(とうとう、この部屋を捨てる時がきたのね。大輔さん、おめでとう。これからは、私の本当の檻で、二人きりで暮らすのよ)
美咲はあらかじめ用意していた大きなボストンバッグを肩にかけ、代沢のマンションへと急行した。
302号室のドアを開けると、そこは地獄のような光景だった。
高橋はリビングの隅にうずくまり、カッターナイフを手に持って、誰もいない空間を狂ったように睨みつけていた。部屋中には、美咲が仕込んだ香織の香水の匂いが充満している。
「大輔さん!」
美咲が駆け寄ると、高橋はカッターナイフを床に落とし、美咲の足元に縋り付いて激しく泣きじゃくった。
「美咲ちゃん……もう駄目だ、僕は狂ってしまった。香織が僕を殺しに来る。この部屋は呪われているんだ。どこを向いても、誰かの視線と、香織の影が僕を追いかけてくるんだ……」
美咲は床に膝をつき、高橋の泥にまみれたような身体を、優しく、しかし二度と離さないという強い力で抱きしめた。
「大輔さん、もう大丈夫です。よく頑張りましたね。このお部屋は、もう危険です。吉川さんがどうやって入ったのかは分かりませんが、大輔さんの精神がこれ以上ボロボロになるのを見ていられません」
美咲は高橋の顔を両手で挟み込み、自分の目をまっすぐに見つめさせた。
「大輔さん、私の家に来てください」
その言葉に、高橋は弾かれたように目を見開いた。
「え……? 美咲ちゃんの、家に……?」
「はい。私のマンションなら、吉川さんも絶対に場所を知りませんし、オートロックも最新式です。会社の人にも内緒にすれば、誰にも大輔さんを見つけることはできません。あんな恐ろしい会社も、この不気味なお部屋も、全部捨てて、私のところで一緒に暮らしましょう。私が、大輔さんのことを一生、お守りしますから」
美咲の瞳は、底知れない深淵のように黒く、そして奇妙なほど甘く澄んでいた。
正気を失い、自らの家さえも恐怖の密室へと変えられた高橋にとって、美咲のその提案は、地獄の底に垂らされた唯一の黄金の蜘蛛の糸に見えた。彼は何度も激しく首を縦に振り、美咲の胸に顔を埋めた。
「いく……いくよ、美咲ちゃん。僕を、連れて行ってくれ。あの女の手の届かない、誰もいない場所に、僕を隠してくれ……」
「ええ、大輔さん。喜んで。行きましょう、私たちの本当の家へ」
美咲は高橋を優しく立たせ、必要最低限の荷物だけをボストンバッグに詰め込ませた。
部屋を出る間際、美咲はリビングのエアコン、そして寝室のサイドテーブルの奥を冷酷に見つめた。そこにある隠しカメラは、高橋大輔が自らの意志でこの部屋を捨て、美咲の手に引かれて「自発的な監禁」へと向かう歴史的な瞬間を、冷たく記録し続けていた。




