第29話:亡霊の再来
相原美咲が仕掛けた音と視線の罠により、高橋大輔の精神は、薄い氷の上に立つように危うい状態に追い詰められていた。
自らの五感さえも信じられなくなり、美咲の「大丈夫、気のせいですよ」という言葉だけを命綱にして生きる毎日。会社では完全に「腫れ物」として扱われ、誰とも言葉を交わすことなく、定時になると逃げるように代沢のマンションへと帰る。それが、かつて誰もが憧れた営業のエース、高橋大輔の現在の全てだった。
しかし、美咲のシナリオはここで停滞することを許さなかった。
彼をこの「部屋」から完全に追い出し、自分が用意した本当の檻へと連れて行くためには、もう一つの決定的な恐怖――彼の中にまだ微かに残っている『吉川香織』への未練と、それに伴う罪悪感を完全に恐怖へと反転させる必要があった。
金曜日の深夜。高橋が心療内科の強い睡眠導入剤の影響で、死んだようにベッドで眠り込んでいる時間を狙い、美咲は手に入れた合鍵を使って静かに302号室へと侵入した。
リビングのエアコンに仕込まれた隠しカメラの映像をスマートフォンで確認し、彼の寝息が一定であることを確かめてから、美咲はバッグの中から「あるアイテム」を取り出した。
それは、吉川香織が愛用していたものと全く同じブランド、同じ香りのする高級なフランス製の香水だった。美咲は香織のSNSの過去の投稿や、彼女が社内で漂わせていた匂いのデータを徹底的に分析し、この香水を特定していた。
美咲は寝室へと音を立てずに移動し、高橋が眠るベッドの足元、そしてクローゼットの扉の取っ手に向けて、その香水を一吹き、二吹きと静かにスプレーした。
夜の重苦しい空気の中に、かつて高橋が耳元で何度も嗅いだはずの、あの甘く品のあるフローラルな香りが、不気味に立ち上り始める。
それだけではなかった。美咲はリビングに戻ると、高橋がいつも使っているノートパソコンのキーボードの上に、小さな『ピンク色の付箋』を一枚、貼り付けた。
そこには、美咲が左手を使って、文字の癖を完全に殺して書き殴った短いメッセージが残されていた。
『大輔くん、まだ私を忘れていないよね? ずっとあなたを見ているよ。 香織』
「これで、チェックメイトよ。大輔さん」
美咲はマスクの奥で、吸血鬼のような鋭い笑みを浮かべた。
自分が仕掛けたストーカーの恐怖によって香織を追い詰め、二人の関係を引き裂いた。そして今度は、その香織を「見えない亡霊」に仕立て上げ、高橋の最後の理性を破壊する道具として利用する。美咲の狂気には、一片の躊躇も、罪悪感も存在しなかった。
翌朝、午前七時。美咲は自分のマンションのベッドの上で、アプリの画面を凝視していた。
寝室のカメラが、高橋が目を覚ます瞬間を捉える。高橋は身体を起こした瞬間、一瞬だけ動きを止めた。そして、狂ったように何度も周囲の空気を嗅ぎ始めた。
画面越しでも、彼が激しくパニックに陥っているのが分かった。その香りは、間違いなく香織のものだったからだ。彼は布団を跳ね除け、よろめきながらリビングへと飛び出していった。そして、ノートパソコンの上に貼られたピンク色の付箋を目にした瞬間、高橋はその場にガタガタと崩れ落ち、頭を抱えて絶叫した。
「嫌だ……嫌だ、嫌だ! 香織、なんでなんだ! 君は僕を捨てて行ったんじゃないのか!? どうしてこの部屋に入れるんだよ!!」
スピーカーから響く高橋の悲鳴を聴きながら、美咲は恍惚とした表情で自分の胸を強く抱きしめた。
恐怖のどん底に突き落とされた彼が、次に縋る相手は誰か。言うまでもなかった。美咲のスマートフォンに、高橋からの着信が入るまで、一分もかからなかった。




