第28話:密室の不協和音
翌日の土曜日。相原美咲は合鍵を使い、高橋大輔の部屋へと「看病」のために正式に訪れていた。
「大輔さん、お待たせしました。大変でしたね、昨日の夜は……」
美咲が玄関に入ると、高橋は待合室の患者のように飛び出してきて、彼女の細い身体を壊れ物を扱うように抱きしめた。彼の身体は冷たく、小刻みに震えている。
「美咲ちゃん……来てくれてありがとう。本当に、この部屋に一人でいると、壁の向こうから誰かが僕を覗いているような気がして、一歩も動けなくなるんだ」
「大丈夫ですよ、大輔さん。今は私がここにいます。ほら、どこを見ても誰もいないでしょう?」
美咲は高橋の背中を優しくさすりながら、リビングのエアコンの吹き出し口へ、一瞬だけ鋭い視線を向けた。その裏にあるレンズは、今この瞬間も、抱き合う二人の姿を完璧に捉え、美咲のバッグの中にあるポータブルハードディスクへと映像を記録し続けていた。
美咲は高橋をソファに座らせると、手際よくキッチンで食事の準備を始めた。
今日彼女が仕込むのは、高橋の「気のせい」を「確信」へと変え、同時に自分の存在を唯一の絶対的な防壁にするための、極めて悪質な心理トラップだった。
高橋がソファでぐったりと横たわり、薬の影響で浅い眠りに落ちたのを見計らい、美咲は行動を開始した。
彼女は自分のスマートフォンを取り出し、事前にインストールしておいた、部屋の隠しカメラの音声を遠隔で操作するアプリを起動した。美咲が仕掛けた超小型カメラには、微弱な音を発生させることができる簡易的なスピーカー機能が備わっていた。
美咲はキッチンの陰から、高橋の耳元に近いサイドテーブルのカメラに向けて、アプリ経由で「ごく微小なノイズ」を送信した。
チリ……、チリ……。
時計の針の音よりも小さな、しかし静まり返った室内では確実に耳に届く、不自然な高周波の電子音。
ソファの上で、高橋の身体がピクリと跳ね上がった。彼はゆっくりと目をあけ、周囲を見回した。
「……何の、音だ……?」
高橋は立ち上がり、音の発生源を探そうと耳を澄ませた。しかし、美咲がアプリの操作で音をピタリと止めると、部屋は再び静寂に包まれた。
「気のせい……か? いや、確かに聞こえた……」
高橋が頭を抱えて混乱しているところへ、美咲が何事もなかったかのようにキッチンから温かいスープを持って現れた。
「大輔さん、どうされましたか? 急に立ち上がって」
「美咲ちゃん……今、小さな音が聞こえなかったかい? チリチリというような、機械の音が……」
高橋は怯えた瞳で美咲の顔を見つめた。美咲はわざとらしく小首をかしげ、部屋の空気をじっと聞き流すフリをした。
「え? 音ですか? ……うーん、私には何も聞こえませんけど……。お外を走る車の音か、冷蔵庫のモーターの音じゃないですか?」
「いや、もっと近くで……この辺りから聞こえたんだ!」
高橋はサイドテーブルを指差した。そのテーブルの裏側に、まさにその音を発したカメラが張り付いているとも知らずに。
「大輔さん、やっぱりお疲れがひどいんですよ。脳が、存在しない音を作り出してしまっているんです。私には何も聞こえません。大丈夫、私がここにいる間は、どんな悪い影も大輔さんに近づけさせませんから」
美咲はスープの器を置き、高橋の両手を優しく握りしめた。
高橋は美咲のその言葉に、「やっぱり僕の幻聴なんだ……。美咲ちゃんに聞こえないなら、僕の頭が狂っているんだ」と、完全に自らの正気を否定し、美咲の言葉を世界の唯一の真実として受け入れた。
自らの五感さえも信じられなくなった男。彼にとって、美咲の「何も聞こえない、誰もいない」という言葉だけが、狂気の淵で踏みとどまるための最後の足場だった。
美咲は彼の絶望的な表情を見つめながら、心の底から湧き上がる愉悦に身を震わせていた。
彼を24時間監視し、その精神を掌の上で転がす『侵入と秘密の共有』のフェーズは、今や完璧な成熟を迎えていた。高橋大輔は、自分の部屋という檻の中で、美咲が奏でる不協和音に踊らされるだけの操り人形へと、完全に成り下がっていたのだった。




