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歪んだ愛  作者: S.S
第四章 職場の人間関係の排除

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第21話:不協和音の種子

高橋大輔の部屋に自らの足で招き入れられたあの日から、相原美咲の世界は完全に次のフェーズへと移行していた。

高橋にとって、美咲はもう単なる職場の後輩ではない。深夜の暗闇、自らの狂気と怯えに押し潰されそうになる夜を救ってくれる、唯一無二の「救世主」だった。美咲が彼の部屋を訪れ、手料理を振る舞い、優しく背中をさするたびに、高橋の瞳からはかつての鋭さが失われ、代わりに泥濘のような依存の光が色濃くなっていった。

しかし、美咲の目的は「部屋での逢瀬」だけでは満足しなかった。

高橋大輔という男のすべてを私のものにする。そのためには、彼をこの世界のあらゆる繋がりから切り離し、完全に私のケージの中に閉じ込める必要があった。

(まずは、会社。大輔さんの周りにいる、あの目障りな人たちを、全部お掃除しなくちゃ)

週が明けた火曜日の午前十時。営業部のフロアは、今月末のクォーター(四半期)末の締め切りに向けて、いつも以上の忙しさに包まれていた。

高橋はデスクに向かい、青白い顔をしながらも必死にパソコンのキーボードを叩いていた。かつての彼なら、これくらいの繁忙期は周囲に冗談を飛ばしながら軽々とこなしていたはずだが、今の彼は自分の仕事を終わらせるだけで精一杯のようだった。

「高橋くん、ちょっといいかな?」

声をかけたのは、営業部のチームリーダーである先輩社員の渡辺だった。渡辺は高橋の直属の先輩であり、高橋が最も信頼を寄せ、仕事の相談を頻繁にしている人物だった。

「あ、渡辺さん。はい、何でしょうか」

「これ、先週提出してもらったB社の契約書の件なんだけどさ。記載されている金額に、一部誤りがあるみたいなんだよね。クライアントから指摘が入ってさ……」

渡辺の言葉に、高橋は目に見えて動揺した。

「えっ……本当ですか? すみません、すぐに確認します。僕、何度もダブルチェックしたはずなんですが……」

「いや、いいんだ。繁忙期だし、疲れが溜まっているんだろう。でも、高橋くんらしくないミスだから、ちょっと気をつけてね」

渡辺はいつものように優しく肩を叩き、自分の席へと戻っていった。

高橋は頭を抱え、必死に過去のメールやデータを漁り始めた。しかし、いくら調べても、自分が提出した時点のデータには一切の不備がないように見えた。

その様子を、三つ隣の席から冷徹な瞳で見つめている者がいた。相原美咲だ。

当然だった。契約書のデータを書き換えたのは、他でもない美咲だったからだ。

先週の金曜日、高橋が退勤したあと、美咲は事務職の権限を使って、営業部の共有サーバー内にある高橋のフォルダにアクセスした。そして、提出間際の契約書のPDFの数字を、専用の編集ソフトを使って巧妙に一箇所だけ書き換えておいたのだ。

美咲の狙いは、高橋の仕事の信頼を失墜させることではない。高橋と、彼が最も信頼している先輩・渡辺との間に、決定的な不信感の楔を打ち込むことだった。

お昼休憩になり、フロアの人間がまばらになったタイミングで、美咲は高橋のデスクへと近づいた。手には、冷たいお茶のペットボトルを持っている。

「高橋先輩……あの、さっきの渡辺さんとの件、大丈夫ですか? 私、先輩がすごく丁寧に資料を作っていらっしゃるの、ずっと近くで見ていたので、先輩がミスをしたなんてどうしても信じられなくて……」

美咲は、心から高橋を不憫に思うような、悲しげな表情を作って囁いた。

「ありがとう、相原さん。でも、現にクライアントから指摘が入っているんだ。僕の確認が甘かったんだと思う……」

「でも……」

美咲はそこでわざと言葉を濁し、周囲をキョロキョロと見回す演技をした。そして、さらに声を落とし、高橋の耳元に顔を近づけた。

「……ここだけの話なんですけど。私、先週の木曜日の夜、残業していたら、渡辺さんが先輩のパソコンの周りを不自然に歩き回っているのを見たんです。その時、先輩のデスクの上にあった書類を、何かスマホで写真に撮っているようにも見えて……。まさかとは思うんですけど、渡辺さん、最近営業の成績が落ちていて、課長から高橋先輩と比較されて焦っているって、総務の人が噂していましたし……」

ドクン、と高橋の目が見開かれた。

「え……? 渡辺さんが……? いや、そんなはずは……彼は僕の恩人だし、そんなことをする人じゃ……」

「そうですよね! 私の勘違いならいいんです。すみません、変なことを言ってしまって。ただ、今の先輩はすごくデリケートな時期ですし、社内の人全員が『味方』だとは限らないのかなって、心配になってしまって……」

美咲は申し訳なさそうに身を引いた。

高橋の脳内に、凶悪な「疑心暗鬼の種子」が埋め込まれた瞬間だった。吉川香織の件で精神を極限まで病んでいる今の高橋には、美咲のこの小さな嘘を「あり得ない」と一蹴するだけの心の余裕は、もう残されていなかった。

高橋の視線が、遠くの席で同僚と笑い合っている渡辺の背中へと向けられた。その瞳には、かつての信頼の色は消え失せ、冷たい疑惑と恐怖の光が混ざり始めていた。美咲はマスクの下で、完璧な勝利の笑みを浮かべていた。

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