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歪んだ愛  作者: S.S
第三章 「偶然」の演出

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第20話:招かれざる救世主

金曜日の午後五時。オフィスを包む週末前の開放的な空気とは裏腹に、高橋大輔のデスクの周辺だけは、まるで時間の流れが凍りついたかのように静まり返っていた。

高橋はパソコンの画面を凝視したまま、一歩も席を動こうとしなかった。彼の脳裏を支配しているのは、仕事のタスクではなく、「今夜、あの冷たい部屋に一人で帰らなければならない」という底知れない恐怖だった。あの金曜日から一週間、部屋に戻るたびに、あのフローラルな匂いが鼻腔の奥にこびりついて離れず、シーツの隙間を執拗に確認しては絶望する夜を繰り返していた。睡眠導入剤の量は増え、脳の霧は濃くなる一方だった。

(あの部屋に帰るのが、怖い。誰かが僕を待っているような、あの暗闇に一人で入るのが――)

高橋の手が小さく震え、マウスを握る指先に力が入る。その時、視界の端に、いつものように静かに、しかし確かな温もりを持って佇む人影が映った。

相原美咲だった。彼女は手際よく書類をファイリングしながら、時折、高橋の方へ心配そうな、しかしすべてを包み込むような優しい視線を送っていた。

その視線を見た瞬間、高橋の心の中で、これまでにない激しい衝動が突き上げてきた。今の自分を支えている唯一の支柱は、この目の前の大人しい後輩だけだった。彼女が隣にいてくれる時間だけが、自らの狂気という底なし沼から身を引くことができる唯一の猶予だった。

(彼女に、一緒にいてほしい。今夜だけでいいから――)

午後六時、定時を告げるチャイムが鳴り響く。社員たちが次々と帰路に就く中、高橋は意を決して席を立ち、美咲のデスクへと歩み寄った。

「相原さん……今夜、この後、少し時間はあるかい?」

高橋の声は、周囲に聞こえないよう低く、そしてどこか縋るように震えていた。美咲はキーボードを叩く手を止め、驚いたように顔を上げた。

「高橋先輩……。はい、私は特に予定はありませんが……。どうされましたか?」

「あの……本当に、自分でも情けないし、迷惑をかけるのは百も承知なんだけど……」

高橋は喉の奥を鳴らし、言葉を絞り出した。

「今夜、僕の部屋に……来てくれないだろうか。一人で、あの部屋のドアを開けるのが、どうしても怖くて。君がいてくれたら、少しは落ち着けるような気がするんだ。もちろん、すぐに帰ってもらって構わない。ただ、少しだけ……」

優秀で、誰の力も借りずに生きてきたはずの完璧な男が、年下の後輩に向かって、プライドを全て投げ捨てて懇願していた。

美咲の胸の奥で、言葉にできないほどのドロドロとした歓喜の濁流が渦巻いた。

(大輔さんから、誘ってくれた。私を、あなたの聖域へと、自分の意思で招き入れてくれたのね――!)

心臓が破裂しそうなほどの快感に、全身の細胞が歓声を上げていた。しかし、彼女の「表の顔」は、一瞬だけ困惑したように眉をひそめ、すぐに深い同情と決意を秘めた瞳へと変化した。

「先輩……。そんなに自分を責めないでください。迷惑だなんて、思うわけがないじゃないですか。先輩がそんなに苦しんでいるのに、放っておけるはずがありません。喜んで、ご一緒させていただきます」

「あぁ……ありがとう、相原さん。本当に、ありがとう……」

高橋は安堵のあまり、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。

一時間後、二人は代沢のマンション『メゾン・ド・ラフィール』の前に立っていた。

夜の帳が下りた高級住宅街。美咲にとっては何度もオートロックを潜り抜けた見慣れた場所だったが、高橋の隣に並び、彼の鍵で開けられる自動ドアを通る瞬間は、また格別の支配感があった。

エレベーターの中で、高橋の身体は目に見えて強張っていた。三階に着き、302号室のドアの前に立つと、彼はカバンから鍵を取り出すのさえ躊躇うように、深い呼吸を繰り返した。

「大丈夫ですよ、先輩。私が後ろにいますから」

美咲が背後から優しく声をかけると、高橋は意を決したように鍵を差し込み、回した。

カチャリ。

ドアが開き、静まり返った暗い玄関が二人を迎える。高橋が恐る恐る電気のスイッチを入れた。

部屋の中は、美咲が数日前に侵入した時のまま、完全に彼女が把握している通りの配置で静まり返っていた。高橋はリビングに入ると、すぐに周囲の匂いを嗅ぎ、テーブルの上を確認した。やはり、何の変化もない。

「……今日は、大丈夫みたいだ」

高橋はソファに深く腰掛け、大きく肩を落とした。

「先輩、お疲れ様です。お部屋、とっても綺麗にされていますね。とりあえず、温かいお茶でも淹れますから、座って休んでいてください」

美咲はバッグを置くと、まるでもう何年もこの家に住んでいる妻のように自然な足取りでキッチンへと向かった。

高橋は、キッチンで手際よく動く美咲の背中を、ぼんやりと見つめていた。

彼女が部屋にいてくれるだけで、あれほど自分を追い詰めていた「見えない恐怖」が、嘘のように霧散していくのを感じていた。彼女の存在そのものが、部屋の不気味な空気を塗り替えていくかのような錯覚。

「相原さんがいてくれると、この部屋が、ちゃんとした僕の家に戻ったような気がするよ」

高橋のその呟きを聞きながら、美咲はキッチンの陰で、声を出さずに狂おしく笑った。

(そうよ、大輔さん。ここが、私たちの家になるの。あなたが私を必要とすればするほど、この部屋はあなたを閉じ込める、私だけの完璧なケージになっていくんだから――)

美咲は温かい緑茶の入ったマグカップをトレイに乗せ、リビングへと戻った。

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