第19話:逃避行の案内人
週が明けた月曜日のオフィス。高橋大輔の様子は、誰の目から見ても異常だった。
デスクに座る彼の身体は、時折ビクッと小刻みに震え、周囲の視線や小さな物音に対して過剰なまでに敏感になっていた。誰かが後ろを通るたびに肩を強張らせ、パソコンの画面に向かうその瞳は、焦点が定まらずに泳いでいる。
「高橋先輩……大丈夫ですか? コーヒー、淹れ直してきました」
午前十時半、相原美咲は周囲に他の社員がいないタイミングを見計らい、絶妙な低音の声で高橋に話しかけた。その手には、彼が最も好む黄金比率の微糖コーヒーが握られている。
「あ……相原さん。ありがとう……」
高橋は顔を上げた。その顔は土日を挟んだとは思えないほどひどくやつれ、無精髭がうっすらと顎を覆っていた。彼は美咲の顔を見た瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、深く、長い溜め息を漏らした。
「あの、先輩。もしよろしければ、少しだけ給湯室で休憩されませんか? 今の先輩、すごく無理をされているように見えます。私でよければ、お話、聞きますから」
美咲の瞳には、打算や狂気など一ミリも混ざっていない、純粋な後輩としての深い慈愛だけが湛えられていた。高橋はその優しい眼差しに吸い寄せられるように、力なく頷いた。
「……そうだね。少し、席を外そうかな」
二人は並んでフロアを出て、奥にある静まり返った給湯室へと向かった。お昼前ということもあり、そこには誰もいなかった。美咲は給湯室の重いドアを閉めると、高橋に温かいマグカップを手渡した。
高橋はカップを両手で包み込むように持ったが、その指先は小さく震えていた。
「相原さん……僕、最近、自分の頭がおかしくなってしまったんじゃないかって、本当に怖いんだ」
高橋は喉の奥から絞り出すような声で切り出した。
「おかしくなるだなんて、そんなことありません。先輩は毎日、本当によく頑張っていらっしゃいます。吉川さんの件だって、先輩は何も悪くないのに……」
「違うんだ、香織の件だけじゃないんだ」
高橋は美咲の言葉を遮るように、必死の形相で首を振った。
「家なんだ。僕の、部屋なんだよ。この前の金曜日の夜、出張から帰ってきたら、部屋の中に……男の一人暮らしでは絶対にあり得ない、甘い花の香りが漂っていたんだ。それに……ベッドの枕元に、僕のものではない、長い黒髪が一本、落ちていたんだよ」
美咲の胸の奥で、ドクンと激しい歓喜の火花が散った。
(気づいてくれた。大輔さん、ちゃんと私の匂いと、私の身体の破片を見つけてくれたのね……!)
マスクの下の口元が、嬉しさのあまり醜く吊り上がりそうになるのを、美咲は強靭な精神力で抑え込んだ。彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに深い悲しみと心配の表情へと巧みにすり替えた。
「え……? それは、本当ですか……? どなたか、他の方がお部屋に入られたとか……」
「わからない! でも、鍵は閉まっていたし、窓も全部ロックされていたんだ。侵入された形跡はどこにもない。香織が昔残していった髪の毛が、今になって出てきただけかもしれない。匂いだって、僕の気のせいかもしれない。でも……どうしても、誰かが僕の部屋にいるような気がして、土日は一歩も家から出られなかったんだ」
高橋は頭を抱え、カウンターに肘をついてガタガタと震え始めた。
有能で、完璧で、誰もが憧れた高橋大輔という男が、今、自分の仕掛けた小さな罠によって、自らの正気を疑い、足元から崩れ去ろうとしている。美咲はその圧倒的な快感に、全身の血が沸き立つような興奮を覚えていた。
今が、彼を完全に手に入れるための絶好の好機だった。
美咲はゆっくりと一歩、高橋との距離を詰めた。二人の身体が触れ合うほどの距離になる。彼女は、躊躇うことなく、その小さく温かい両手で、高橋の震える肩をそっと包み込んだ。
「先輩……。それは、先輩の頭がおかしくなったわけじゃありません。当然ですよ。あんなに酷い目に遭って、心も身体も限界まで疲れていらっしゃるんです。人間、極度のストレスが溜まると、五感が過敏になって、普段気づかないものに怯えてしまったり、幻聴や幻臭を感じてしまうことがあるって、本で読んだことがあります」
美咲の声は、まるで母親が幼子をあやすかのように優しく、そして絶対的な説得力を持っていた。
「先輩が狂ってしまったわけじゃありません。ただ、心が少しだけ休みたいって、悲鳴を上げているんです。だから……自分を責めないでください」
高橋は、肩に触れる美咲の手の温もりにハッと息を呑んだ。
自らの正気を疑う孤独な暗闇の中で、美咲の言葉は、彼のすべてを無条件で肯定してくれる唯一の「救い」だった。高橋は顔を上げ、潤んだ瞳で美咲を見つめた。
「相原、さん……。君は、僕を信じてくれるんだね」
「もちろんです。世界中の誰もが先輩を疑っても、私だけは先輩の味方です。だから、一人で怯えないでください。辛い時は、いつでも私を頼ってくださいね」
美咲は満面の笑みで、高橋の目を見つめ返した。
高橋はその瞬間、美咲という存在に対して、完全に心の鍵を解き放ってしまった。彼にとって彼女は、もう単なる「会社の有能な後輩」ではなかった。自分を狂気の一歩手前で引き留めてくれる、世界で唯一の『理解者』であり、絶対的な依存先となったのだ。
「ありがとう、相原さん……。君がいてくれて、本当によかった……」
高橋は安堵のあまり、掠れた声で何度もそう呟いた。
美咲は彼の背中を優しくさすりながら、心の中で冷酷なカウントダウンを始めていた。
これでいい。大輔さん、もっと私に依存して、もっと私なしでは生きていけない身体になって。
あなたが自分の家を「恐怖の場所」だと思えば思うほど、私の用意するケージは、あなたにとって最高の楽園になるのだから。




