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歪んだ愛  作者: S.S
第三章 「偶然」の演出

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第18話:見えない染み

午後九時十五分。千葉での過密な商談スケジュールを終えた高橋大輔は、疲れ切った身体を引きずるようにして『メゾン・ド・ラフィール302号室』の玄関の前に立っていた。

一日中、慣れない土地を歩き回り、クライアントとのタフな交渉に神経をすり減らしたせいで、頭の奥がズキズキと脈打つように痛む。高橋はため息をひとつつき、カバンから鍵を取り出してドアを開けた。

「……ただいま」

返事のない暗闇に向かって、毎日のルーティンとなった言葉を呟く。電気のスイッチを入れると、無機質な白いLEDの光が玄関と廊下を照らし出した。

高橋は革靴を脱ぎ、スーツのジャケットを脱ぎ捨ててリビングへと向かった。心療内科に通い始めてから、彼は自分の部屋をできるだけ綺麗に保つよう心がけていた。部屋の乱れは心の乱れだと、医師に言われたからだ。今日も出社前に、ゴミはすべて片付け、テーブルの上も綺麗にしてから家を出たはずだった。

しかし、リビングのソファに腰を下ろした瞬間、高橋の鼻腔を「ある違和感」がくすぐった。

「……ん?」

高橋は顔をしかめ、小さく鼻を鳴らした。

部屋の空気が、いつもと違っていた。自分が愛用しているウッディ系の芳香剤の香りの奥から、それとは明らかに異なる、微かに甘い、フローラルなベリーのような匂いが漂ってくるのだ。それは、男の一人暮らしの部屋からは、逆立ちしても漂ってくるはずのない「女性の匂い」だった。

高橋は立ち上がり、キッチンの周囲やリビングの棚を不審そうに見回した。しかし、家具の配置は自分が朝出かけた時のままで、何かが動かされた形跡は一切ない。

(気のせいか……? いや、でも確かに……)

彼は自分の着ているシャツの襟元を嗅いでみたが、そこからは自分がつけているシトラスの香水と、一日中歩き回った汗の匂いがするだけだった。

「疲れが出ているのかな……」

高橋はこめかみを指で強く揉んだ。吉川香織との一件以来、彼の神経は常に過敏になっていた。誰かに見られているような気がする、誰かが自分の噂をしているような気がする――そんな被害妄想に近い感覚が、今も完全には消え去っていないのだ。医師からも「強いストレスの後は、嗅覚や聴覚に幻覚のような違和感を覚えることがあります」と説明されていた。

高橋は自分を納得させるように首を振ると、重い足取りで寝室へと向かった。

早くシャワーを浴びて、処方された睡眠導入剤を飲んで眠ってしまいたかった。これ以上、存在しない影に怯えるのは御免だった。

ベッドの横に立ち、スウェットに着替えようとズボンに手をかけたその時、高橋の視線が、ベッドの枕元へと吸い寄せられた。

ベージュ色のシーツの折り目の隙間に、何かが挟まっている。

高橋は息を詰め、その場所に顔を近づけた。

それは、一本の、長い、黒い髪の毛だった。

高橋自身の髪は短く、少し茶色に染めている。そのシーツに落ちていたのは、明らかに自分のものではない、艶のある女性の髪の毛だった。

ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。

高橋は震える手でその髪の毛を拾い上げ、蛍光灯の光にかざした。脳裏に真っ先に浮かんだのは、自分を拒絶して去っていった元恋人、吉川香織の顔だった。

(香織……? いや、そんなはずはない。彼女は僕の鍵を持っていないし、そもそも僕と関わるのをあんなに怖がっていたじゃないか。じゃあ、これは誰の……?)

恐怖が、冷たい汗となって背中を伝い落ちる。

自分の知らない間に、誰かがこの部屋に入ってきたのだろうか。オートロックを潜り抜け、この強固なディンプルキーを開けて、自分のベッドに横たわったというのだろうか。

「嘘だろ……」

高橋は部屋中を見回した。クローゼット、窓の鍵、ベランダのサッシ。すべての鍵は内側から完璧に閉まっている。侵入された形跡など、どこを探しても見つからなかった。

彼は、自分の頭を両手で激しく掻きむしった。

(落ち着け……落ち着け、大輔。これは、香織がまだこの部屋に遊びに来ていた頃の、古い髪の毛が今になってシーツの隙間から出てきただけだ。何度も洗濯したって、一本くらい繊維に絡みついて残ることだってある。そうだ、そうに決まっている……)

そう思わなければ、自分の精神が今度こそ完全に崩壊してしまうという恐怖があった。

高橋は髪の毛をゴミ箱に投げ捨てると、逃げるようにベッドに潜り込み、抗不安薬を多めの水で喉の奥へと流し込んだ。

目を閉じても、鼻の奥に残るあの甘いフローラルな匂いが消えない。

高橋は毛布を頭から被り、ただ薬が脳を麻痺させてくれるのを待った。自分が今、相原美咲という完璧なストーカーが仕掛けた「見えない罠」の中で、自らの精神の狂気を疑いながら、じわじわと追い詰められていることにも気づかずに。

その頃、美咲は自分の部屋のベッドの上で、高橋の部屋のGPSが『自宅』を指したまま動かない画面を見つめ、恍惚とした表情でスマートフォンを愛おしそうに撫でていたのだった。

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