第17話:模造された運命
それからの二週間、高橋大輔の日常には、奇妙なほど頻繁に「相原美咲」という存在が静かに滑り込んできた。
ある時は、彼が会社を少し早めに出て、気分転換のために立ち寄った渋谷の裏通りにある静かなブックカフェ。彼がお気に入りの窓際の席に座り、コーヒーに口をつけようとしたその瞬間、「あ、高橋先輩!?」と、驚いたような、しかし弾むような声がすぐ隣から聞こえた。見上げると、そこにはお洒落な私服に身を包んだ美咲が、文庫本を片手に立っていた。
またある時は、雨の日の退勤時。高橋が傘を忘れてオフィスのエントランスで途方に暮れていると、美咲が「先輩、もしよかったら私の傘、一緒に入りませんか?」と、大きめのビニール傘を差し出して微笑みかけてくれた。下北沢の駅までの短い道のり、一つの傘の中で触れ合う彼女の肩の温もりは、冷え切った高橋の心に心地よく染み渡った。
「本当に、最近よく会うよね。相原さんとは、なんだか行動パターンが似ているのかな」
駅の改札前で、高橋は少し照れくさそうに笑いながら言った。彼の中に、不信感は一ミリもなかった。それどころか、吉川香織に拒絶され、孤独のどん底にいた彼にとって、この度重なる偶然は、傷ついた心を癒やすための「運命の引き合わせ」のようにすら思え始めていた。
「ふふ、本当ですね。私もびっくりしています。でも、大輔先輩――あ、すみません、高橋先輩とお会いできると、その日一日がすごく特別に感じられるんです」
美咲はわざとらしく名前を呼び間違え、恥ずかしそうに俯いてみせた。高橋はそんな彼女の健気な姿に、男としての自尊心を激しく満たされていた。
しかし、高橋が「運命」と呼んだその景色のすべては、美咲がスマートフォンの画面上でミリ単位でコントロールした、冷徹な『模造品』に過ぎなかった。
彼のスマートフォンのGPSは、十五分おきに彼の現在地を美咲の端末へと知らせていた。彼がどのルートを歩き、どの店に入ったのか、美咲はすべてを把握し、まるでチェスの駒を動かすように自分の身体を先回りさせていたのだ。
そして、美咲の計画は、外側での待ち伏せだけにとどまらなかった。
彼に「偶然の出会い」を意識させ、自分の存在を脳内に植え付けているその裏で、美咲はついに、手に入れた合鍵を使う『本番』へと駒を進めていた。
金曜日の午後。高橋が千葉のクライアント先へ直行直帰の出張に出かけた日。
彼のGPSが東京から完全に離れ、千葉の幕張に滞留していることを確認した美咲は、午後三時に「私用のため」と会社を早退した。
向かった先は、世田谷区代沢のマンション『メゾン・ド・ラフィール302号室』。
平日の昼下がりの高級住宅街は、驚くほど静まり返っていた。美咲はいつものように帽子を深く被り、周囲に住民の姿がないことを確認すると、迷いのない足取りでオートロックのエントランスを通過した。手の中にある真鍮製の合鍵が、自動ドアのシリンダーに滑らかに噛み合い、一瞬でロックが解かれた。
エレベーターで三階へ上がり、302号室の扉の前に立つ。
心臓が激しく、暴れるように脈打っていた。会社で看病したあの時は、高橋の許可を得て入った。しかし、今日は違う。彼はこの場所にいない。これは完全なる「侵入」であり、彼のプライ域への本格的なレイプだった。
美咲はポケットから合鍵を取り出し、ドアの鍵穴へと差し込んだ。
カチャリ。
重厚な金属音が、静かな廊下に響く。美咲はドアノブをゆっくりと回し、音を立てずに扉を開けた。
一歩、中へ足を踏み入れる。
「……ただいま、大輔さん」
誰もいない暗い空間に向かって、美咲は狂気的な笑みを浮かべながら呟いた。
カーテンが閉め切られたリビングは、昼間だというのに夜のように薄暗かった。空気はどこか冷たく、高橋の体臭と、彼が使っているお気に入りの柔軟剤の香りが、部屋全体に濃く澱んでいた。美咲はその空気を、肺が破れんばかりに深く、深く吸い込んだ。身体の芯が、熱い歓喜で痺れていく。
彼女は靴を丁寧に揃えて脱ぐと、まずはリビングへと向かった。
以前、自分が看病に来た時とは違い、部屋はそれなりに片付いていた。高橋が日常生活を取り戻そうと、必死に足掻いている証拠だった。
美咲は、その「取り戻されつつある日常」を、自分の手で少しずつ染め上げていくことにした。
彼女はバッグの中から、いくつかの小さなアイテムを取り出した。
一つは、会社で回収した、高橋のペン立てに仕込んだものと同じフローラルな香りのする、小さなルームフレグランスの小瓶。美咲はそれを、リビングのテレビの裏側、普通に生活していれば絶対に視界に入らない死角へと設置した。
「大輔さんの毎日に、私の匂いを混ぜてあげる……」
さらに、美咲は寝室へと足を進めた。
高橋が毎晩眠っている、セミダブルのベッド。美咲はそのマットレスの上に、自分の身体をゆっくりと横たえた。彼の枕に顔を埋め、彼が頭を乗せている感触を全身で確かめる。シーツの擦れる音が、まるでお互いの肌が擦れ合っているかのように官能的に響いた。
美咲はベッドの中で身悶えしながら、自分の髪の毛を一本、意図的に抜いた。長い、黒い髪の毛。それを、高橋の枕のすぐ横、シーツの折り目の隙間に、わざとらしく数センチだけ見えるように挟み込んだ。
もし、高橋がこれを見つけたらどう思うだろうか。
あるいは、万が一にも吉川香織がこの部屋に戻ってくるようなことがあれば、この一本の髪の毛が、彼女の精神を完全に破壊する決定打になる。
美咲は一時間ほど彼の部屋に滞在し、部屋のあらゆる配置、クローゼットの中の衣服の並び順、冷蔵庫の中身のすべてをスマートフォンで撮影し、記録した。そして、自分が来た痕跡を完璧に消し去りながら、再び玄関へと向かった。
ドアに鍵をかけ、廊下に出た瞬間、美咲の胸は圧倒的な万能感で満たされていた。
高橋大輔は、自分のことを「偶然よく会う、優しくて可愛い後輩」だと思っている。だがその実、彼の聖域である部屋は、すでに美咲の手によって裏から完全に支配され、浸食され始めているのだ。




