第16話:複製される日常
相原美咲は、自宅のデスクの前に座り、完成したばかりの「一本の金属片」を蛍光灯の光にかざしていた。
それは、世田谷区代沢のマンション『メゾン・ド・ラフィール302号室』の合鍵だった。高橋の部屋のキッチンで、数秒の隙を突いて特殊粘土に押し付けたあの型から、都内の裏通りにある馴染みの鍵職人に依頼して作らせたものだ。ディンプルキー特有の複雑なクボミの配置が、削りたての真鍮の表面に狂いなく並んでいる。
「これで、いつでも大輔さんの隣に行ける……」
美咲はその鍵を自分の唇にそっと触れさせた。金属のひんやりとした感触が、脳の奥底に甘い痺れをもたらす。
週が明け、高橋大輔は一週間ぶりに会社へと復帰していた。
心療内科の薬が効いているのか、あるいは美咲が施した「看病」のおかげか、彼の顔色には最悪の時期ほどの青白さはなかった。しかし、その佇まいからは、かつて営業のエースとして社内を闊歩していた頃の圧倒的な自信や、人を惹きつけるオーラはすっかり消え失せていた。
「高橋先輩、おはようございます。お仕事、無理なさらないでくださいね」
午前八時。美咲はいつものように完璧なタイミングで、彼のデスクに温かいコーヒーを置いた。
「あ、相原さん……おはよう。先週は本当にありがとう。君のおかげで、なんとか戻ってこられたよ」
高橋は美咲の顔を見ると、心の底から安心したように表情を緩めた。その瞳には、単なる「有能な後輩」に対するもの以上の、明確な『依存』の色が混ざり始めていた。彼にとって美咲は、吉川香織という悪夢に引き裂かれた世界の中で、唯一自分を無条件に肯定し、救い出してくれた聖母のような存在だった。
「そんな、先輩が無事に戻ってきてくださっただけで十分です。今日からまた、私が先輩の右腕として、全力でサポートしますから」
美咲は優しく微笑みながら、自分のデスクへと戻った。
彼女のパソコンの画面には、通常の業務ウィンドウの裏に、別のソフトウェアが隠されていた。それは、高橋のスマートフォンのGPS位置情報を遠隔で追跡するための管理画面だった。
先週、彼の部屋で看病をしていた際、美咲が仕込んだのは鍵の型取りだけではなかった。彼が薬の影響で深い眠りに落ちている二時間の間に、彼のスマートフォンを操作し、バックグラウンドで位置情報を共有する追跡アプリを密かにインストールしていたのだ。アイコンは社内のセキュリティツールに偽装してあるため、現在の衰弱した高橋の観察力では、一生気づかれることはない。
(大輔さん、今日の予定は……午後から新宿のB社へ外回りね。直帰の予定。……素晴らしいわ。最高の『偶然』を演出できる)
午後一時。高橋は鞄を手に取ると、「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」と美咲に声をかけてオフィスを出て行った。
美咲はその背中を見送ると、手元の時計を確認した。彼が新宿に到着し、商談を終えるのはおよそ午後三時前後。その後、彼はまっすぐ代沢の自宅へ帰るか、あるいはどこかで時間を潰すはずだ。
午後三時三十分。美咲は「体調が優れないので、午後半休をいただきます」と課長に告げ、誰よりも早く会社を後にした。オフィスを出た瞬間、彼女は地味な事務職のコートを脱ぎ捨て、バッグから大ぶりのサングラスと、落ち着いたトーンのキャスケット帽を取り出して身に付けた。
スマートフォンの画面を見る。高橋の位置を示す赤いドットは、新宿駅から小田急線に乗り、下北沢駅へと向かっている。直帰ルートだ。
美咲は先回りをするように、下北沢駅から一駅隣の世田谷代田駅へと向かい、高橋がいつもマンションへ帰る際に通る、静かな遊歩道のルート上で彼を待ち伏せることにした。
そこは、緑豊かな木々が立ち並び、夕方でも人通りが比較的少ない、隠れた散歩道だった。美咲は並木道のベンチに腰掛け、本を読むフリをしながら、追跡画面の赤いドットが自分の位置に近づいてくるのをじっと待った。
(あと三百メートル……二百メートル……百メートル……)
心臓の鼓動が激しく刻まれる。
雑木林の向こうから、聞き慣れた足音が近づいてきた。革靴が舗装された土を踏み締める音。間違いない、高橋だ。彼は鞄を片手に、やはりどこか視線を落としたまま、力ない足取りで歩いていた。
美咲はタイミングを見計らい、サングラスを外して、わざとらしく驚いた声を上げてベンチから立ち上がった。
「――あ、高橋先輩!?」
高橋はビクッと身体を震わせ、顔を上げた。そこにいたのが、見慣れた、そして今最も信頼している後輩の相原美咲だと気づくと、彼の表情は劇的に明るくなった。
「えっ……あ、相原さん!? どうしてこんなところに……?」
「あ、すみません! 実は私、近くの友達の家に用事があって、午後半休をいただいていたんです。帰りにこの遊歩道が綺麗だって聞いたので、少しお散歩をしていこうと思って……。まさか、こんな場所で先輩にお会いできるなんて、すごい偶然ですね!」
美咲は頬を少し染め、少女のように無邪気に笑ってみせた。
高橋にとって、それはあまりにも自然で、美しい「偶然の出会い」に見えた。彼は完全に警戒を解き、「そうだったんだ。いや、本当にびっくりしたよ。僕もこれから家に帰るところだったんだ」と、久しぶりに本来の優しい笑顔を見せた。
「なんだか、神様が私たちをここで会わせてくれたみたいですね」
美咲が冗談めかして言ったその言葉に、高橋は疑いを持つどころか、「本当にそうだね。なんだか、相原さんと会うと、いつも心が軽くなる気がするよ」と答えた。
二人は並んで、代沢のマンションへと続く道を歩き始めた。
夕暮れ時の街灯が、二人の影を地面に長く伸ばしていく。高橋は、自分の隣を歩くこの大人しい後輩が、実は自分のスマートフォンを24時間監視し、この出会いさえも完璧にコントロールされた『仕組まれた偶然』であることなど、夢にも思っていなかった。




