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歪んだ愛  作者: S.S
第二章 観察と境界線の崩壊

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第15話:聖域の侵食

「……いいのかい? そこまで甘えてしまって。本当に申し訳ないな」

高橋大輔は、自分の額を押さえながら消え入りそうな声で言った。相原美咲は、これ以上ないほど献身的で、かつ控えめな後輩の笑みを浮かべて深く頷いた。

「もちろんです、先輩。私は会社のメンバーの代表としてここに来ているんですから、遠慮なんてしないでください。少しでも先輩の負担が軽くなるなら、私はそれが一番嬉しいんです」

「ありがとう……。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな。本当に、最近は起き上がるのすら億劫でね」

高橋が身体を引くと同時に、美咲は一歩、彼の部屋のフローリングへと足を踏み入れた。

ガチャリ、と背後で閉まった玄関のドアの音は、彼女にとって世界の始まりを告げるファンファーレのように心地よく響いた。ついに、彼のプライベートな聖域の内部へと足を踏み入れたのだ。

美咲は「失礼します」と小さく声をかけながら、リビングへと進んだ。

部屋の中は、彼女がこれまでゴミの解剖から予測していた通りの惨状だった。お洒落なガラスのローテーブルの上には、ストロング系の缶ビールの空き缶が何本も転がり、コンビニのおにぎりの包装プラスチックが散乱している。洗練されたデザイナーズマンションの面影は、男の絶望と引きこもり生活によって完全に塗りつぶされていた。

しかし、美咲にとっては、この荒れ果てた部屋こそが最高の楽園だった。

「先輩、とりあえずここに座って休んでいてくださいね。お水、持ってきますから」

美咲は高橋をソファへと誘導し、自分は慣れた手つきでキッチンへと向かった。

初めて入るキッチンだったが、美咲にとっては何の迷いもなかった。なぜなら、間取り図や彼の生活動線は、外側からの観察ですでに頭の中に完璧にシミュレーションされていたからだ。

冷蔵庫を開けると、中には半分傷みかけた牛乳と、ほとんど中身のない調味料のボトルが数本入っているだけだった。美咲は持参したお粥のレトルトを取り出し、手際よく小鍋に移して温め始めた。

(大輔さん、本当に私がいないと駄目な人間になっちゃったんだ……。嬉しい。私が全部、管理してあげるからね)

お粥が温まるまでの数分間、美咲の目は恐ろしい速度でキッチンの周囲を、そしてリビングの隅々を観察していた。彼女の目的は、単なる看病ではない。この部屋の構造を完璧に把握し、自分がいつでも「自由に出入りできる方法」を確保することだった。

視線が、キッチンのカウンターの上に置かれた、小さな木製のトレイに留まった。

そこには、高橋が普段使っている財布や、名刺入れ、そして――

(あった……。大輔さんの、お家の鍵……)

美咲の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。

それは、シルバーのシンプルなキーホルダーにつけられた、ディンプルキーだった。このマンションの強固なオートロックと、302号室のドアを解錠するための、唯一無二の金属片。

美咲はリビングの方を盗み見た。高橋はソファに深く身体を沈め、両手で顔を覆ったまま、微動だにしていなかった。薬の影響か、それとも極度の疲労のせいか、完全に自分の世界に閉じこもっている。

美咲は音を立てずにトレイへと近づいた。

心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。しかし、彼女の手先は驚くほど冷静だった。バッグのサイドポケットから、あらかじめ用意していた「ある特殊な粘土」を取り出す。これは、鍵の型を瞬時に取るための、ストーカーにとっては必須の道具だった。

美咲はトレイから高橋の鍵をそっと拾い上げると、粘土の入った小さなケースへと押し付けた。

ギチ、と金属が粘土にめり込む微かな手応え。

表側を押し付け、次に裏側を均等に押し付ける。ディンプルキーの複雑な穴の形が、青い粘土の上に完璧に転写されていく。時間にして、わずか五秒足らずの早業だった。

美咲は型を取り終えると、鍵を元のトレイの、寸分違わぬ位置へと戻した。そして、粘土のケースを素早くバッグの奥深くへと滑り込ませた。

「高橋先輩、お粥が温まりましたよ。少しでも食べられそうですか?」

美咲は何事もなかったかのように、温かいお粥を乗せたトレイを持ってリビングへと戻った。

「ああ、すまない……。本当に手際がいいね、相原さんは」

高橋はゆっくりと顔を上げ、美咲が差し出したスプーンを受け取った。彼がお粥を弱々しく口に運ぶ姿を、美咲はソファの傍らに膝をつきながら、じっと見つめていた。

「美味しいよ……。本当に、久しぶりに温かいものを食べた気がする」

高橋の瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちた。完璧だった男が、自分の前で完全に無防備になり、涙を流している。その圧倒的な支配感に、美咲は背中がゾクゾクとするような快感を覚えていた。

「よかったです。先輩が元気になるまで、私、毎日でもお手伝いに来ますからね」

美咲は優しく微笑み、彼の細くなった肩をそっとさすった。

高橋にとって、相原美咲は自分を暗闇から救い出してくれる「唯一の天使」に見えていたに違いない。しかし、その天使が今、自分のポケットの中に、この部屋のすべてを奪い去るための「悪魔の型」を忍ばせていることなど、彼は知る由もなかった。

美咲の『観察』のフェーズは、今夜で完全に終了した。

手に入れた鍵の型。これを使えば、数日後にはこの部屋の「合鍵」が完成する。高橋大輔が留守にしている時間、あるいは眠り込んでいる時間、美咲はいつでもこの聖域を侵食することができるようになるのだ。

第2章『観察と境界線の崩壊』の最終話が、静かに幕を閉じようとしていた。二人の関係は、会社の後輩という枠組みを完全に踏み越え、美咲が彼の生活そのものを裏から支配する、次の恐ろしいフェーズへと進んでいくのだった。

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