第14話:境界線の訪問
高橋大輔が会社を休み始めてから、一週間が経過していた。
営業部のフロアでは、彼の不在による業務の遅れをカバーするため、連日バタバタとした空気が続いていた。しかし、誰も高橋の自宅へ直接様子を見に行こうとする者はいなかった。吉川香織とのストーカー騒ぎの全貌が不透明なまま、余計なトラブルに巻き込まれたくないという、事なかれ主義の壁が社内を覆っていたからだ。
「誰も行かないなら、私がいく。当然の権利よね」
木曜日の午後、相原美咲は給湯室の鏡の前で、自分の顔を入念にチェックしていた。
今日の彼女は、いつもの地味な事務職の制服ではなく、お見舞いに相応しい、清潔感のある白いブラウスとベージュのフレアスカートに身を包んでいた。メイクも極力ナチュラルに、しかし「先輩を心から心配して、少しやつれてしまった健気な後輩」に見えるよう、アイシャドウの色味を工夫してある。
彼女のバッグの中には、佐藤さんから聞いた住所のメモと、途中のデパ地下で購入した、高級なレトルトのお粥や、体に優しいゼリーの詰め合わせが入っていた。もちろん、これは単なる「お見舞い」という大義名分を果たすための小道具に過ぎない。
午後六時三十分。美咲は再び、世田谷区代沢の高級デザイナーズマンション『メゾン・ド・ラフィール』のエントランスの前に立っていた。
夜の帳が下り、スタイリッシュな間接照明がコンクリートの壁を白く浮かび上がらせている。美咲は深く息を吸い込み、ガラスの自動ドアの手前にある、ステンレス製のインターホンパネルへと歩み寄った。
部屋番号『302』を押し、呼出ボタンに指を触れる。
ピンポーン、ピンポーン。
静かなエントランスに、電子音が冷たく響き渡る。美咲の心臓は、まるでドラムの連打のように激しく胸の壁を叩いていた。ついに、彼のプライベートな聖域の扉を叩く瞬間がやってきたのだ。
一秒、二秒、三秒……。応答はない。
美咲は諦めず、もう一度呼出ボタンを押した。さらに数十秒が経過した頃、スピーカーから「ザー……」というノイズとともに、酷く掠れた、今にも消え入りそうな声が聞こえてきた。
『……はい……どなた、ですか……』
高橋の声だった。かつての営業のエースらしい、張りのある爽やかな美声の面影はどこにもない。まるで地の底から響くような、疲れ果てた男の声。
「高橋先輩! 営業部の相原です。お休みのところ、突然押しかけてしまって本当に申し訳ありません!」
美咲はインターホンのカメラに向かって、これ以上ないほど純粋で、心配に満ちた表情を作って呼びかけた。
『え……相原、さん……? どうして……』
「課長や佐藤さんから、先輩のご体調がとても悪いと伺って……。部の皆さんもすごく心配していて、お見舞いの品をお預かりしてきたんです。もしご迷惑でなければ、ドアの前に置いておくだけでも構いませんので……!」
美咲の言葉は完璧だった。「部の皆さん」という言葉を混ぜることで、個人的な押し掛けではなく、会社の親切な後輩としての立場を強調したのだ。
画面の向こうで、高橋が長い躊躇をしているのが、沈黙の長さで伝わってきた。今の彼は、誰とも関わりたくないという防衛本能と、誰かに縋りたいという孤独の狭間で激しく揺れ動いているはずだった。美咲は、ゴミの分析から彼の精神状態が「限界」であることを完全に知っていた。
カチャリ、とエントランスの自動ドアのロックが解除される音が響いた。
『……三階です。わざわざ、ありがとう……』
「失礼いたします!」
美咲は小さくガッツポーズをしたい衝動を抑え、エレベーターへと乗り込んだ。
三階の廊下は、内廊下仕様でホテルのように静まり返っていた。フカフカの絨毯を踏み締めながら、美咲は『302号室』のドアの前に立った。
ドアノブの手前で呼吸を整える。間もなく、内側からガチャガチャと鍵が解かれる重い音がした。
ゆっくりと開いた扉の隙間から、高橋大輔が姿を現した。
美咲は思わず、息を呑む演技をした。数日前にベランダで見かけた時よりも、彼はさらに衰弱していた。頬はこけ、目は落ち込み、無精髭が顎を黒く覆っている。何より、彼の瞳からは「生気」というものが完全に失われていた。
「高橋先輩……! そんな、こんなに御髪が……お体、大丈夫ですか……?」
「あはは……。格好悪いところを見せちゃったね。わざわざ来てくれて、ありがとう、相原さん」
高橋は力なく微笑み、ドアを少し広く開けた。
部屋の奥からは、閉め切られた部屋特有の、埃とアルコール、そして微かな男の体臭が混ざり合った匂いが漂ってきた。美咲はその匂いを感知した瞬間、脳の奥が痺れるような強烈な快感を覚えた。
(大輔さんの、お部屋……。ついに、ここまで来られた。私の、新しい檻の入り口に)
「あの、これ……部の皆さんからです。お粥や、栄養のあるものを集めてきました。先輩、ちゃんとご飯、食べてらっしゃいますか?」
美咲がバッグから品物を取り出すと、高橋はその優しさに触れた瞬間、目頭を熱くしたように視線を落とした。
「ありがとう……。最近、本当に何も喉を通らなくてさ。相原さんには、いつも助けられてばかりだ」
「そんなこと言わないでください! 私は、先輩に一日も早く元気になって、また会社で笑ってほしいんです」
美咲は一歩、踏み込んだ。ドアの敷居を越え、彼の靴箱の横へと足を進める。高橋はそれを拒絶するだけの気力も残っていなかった。
「先輩、もしよろしければ、私にお部屋のお片付けや、簡単なお食事の準備をさせていただけませんか? ほんの少しの時間で構いませんので……」
美咲の瞳が、暗闇の中で妖しく光った。
彼を外側から観察するフェーズは完全に終わった。今、彼女の足は、高橋大輔という男の人生の最も深い領域へと、一歩を踏み出そうとしていた。第2章『観察と境界線の崩壊』のクライマックスが、目の前で静かに幕を開けようとしていた。




