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短編集 原風景   作者: 潮戸 あお
絵描きの男
3/4

琥珀色 中

 想定より長くなったので、上中下に変更です。この話から性癖の塊になりますので、閲覧注意。

 

 

 夢から目が覚めて、慣れない毛布に体が包まれていることに気が付いた。なぜだろうかと、不思議になる。


……昨日のこと。描いた絵がどうやら金持ちの琴線に触れたらしく、予想以上に高く売れてしまって、それでいつもより多少高い宿に泊まることにしたのだ。

 

 そういう覚えがある。


 身を起こし、寝具から這い出る。汗がびっしょりと背中に纏わりつく。服が素肌に張り付いて気分が悪い。どうしたってこんな思いをしなければならないのだ、と少し気分が悪くなった。

 とりあえず、シャワーを浴びておきたかった。


**


 部屋に備えられていたタオルを取って、体を拭く。何の生地だろうか。普段の麻のものよりずいぶん肌触りがよく感じられる。そろそろ、こういった物にも金をかけてみるべきだろうか。手持ちとへそくりとで勘案してみる。


 ……夢、そうだ、私は夢を見ていた。突拍子もない内容。ちぐはぐで筋の通った様子など感じられなかった。


 既に詳細は忘れてしまったが、心地よいものではない――乱れた動悸と不快な汗がそれを如実に物語っている。


 二階の客室から、雨上がりの街を見下ろす。湿った地面 (ところどころぬかるんでさえいる) を気にせずに子どもたちは遊んでいる……元気なものだ。


 この季節では避暑地として有名な街だと、そう今回の客から聞いた。実際、数日前に到着してからは猛暑に悩まされることなく、快適な日夜だった。


 今日の昼前には街を出ることにしているので、簡単に荷物をまとめて朝食を摂ることにする。


 値の張るだけあって、朝食は宿側が用意しており、どの設備も清潔で整っている。品揃えも中々に豪勢で、満足できるものだった。


 昨日の絵……買ったのは初老の男だった。私の描いたそれがどうにも気に入ったらしく、高値で買うと言い出したのだ。


 路銀が多いに越したことはない。それは大変ありがたい申し出だった。しばらくは金に余裕が生まれる。


 さて、彼は自分の絵に惚れ込んだそうだが、同じように自分の為人にも興味を持ったようで、購入に際していくつか会話を交わした。


 そうだ、それがきっかけだろう。それでああして夢を見る羽目になったのだな、思うに。


 どうして絵を描き始めたのかと、老人は尋ねた。


 私はしばし答えに迷ったあと、顎に手を当ててみたり視線を彷徨わせたりして、考える素振りをぞんぶんに見せてから口を開いた。


 こうして身の上話をする私は真実を話しさえすれど、嘘をつくことだってあった。取り繕った話をするのも、それが初めてではなかった。


 じっさい、どうして絵を描き始めたのかと己に問えば、とある景色がきっかけになる。


 丘。草原が一帯に広がる中の、にわかに盛り上がった起伏の上に私は立っていた。眼前には巻雲の散らばった青空が高く澄み渡り、遠くには青くきらめく水平線が淡く光っている。そこに立っていた。その景色が深く深くまぶたの裏に刻まれている。


 実のところ、この景色がどこの場所のものなのか定かではない。


 親が二人とも旅好きだったので、私も幼少の、物心おぼつかぬ時期からあちらこちらに連れ出されていたのだ。


 そのなかの一つ――その他の記憶は今では皆無と言って良いくらいに朧げである――に、その景色が佇むわけだった。


 幼かった自分はその地名など覚えておらず、今となっては親に尋ねることもできない。それが今この瞬間まで続いており、結局その場所を知らずにいる。


 その丘の、私が立ちつくす場所の足元には、一輪の花が咲いていた。(ああ、思い出した。ずいぶんと寒くて、花が咲くにも厳しい土地だった。)

 その他に、目立つ植物は見当たらない。針葉樹の一本すら見えなかった。


 その憧憬が忘れられないでいる。なだらかな丘と流れる空、風に揺らめく一輪草。それが今でも心の中の多大なところを占めきっている。


 そういった話を、老人には話した。聞き終わって、しばらく鷹揚に頷いたあと、彼は言った。


「君は、それが忘れられないのだね。いま思い起こせる全ての中で、それが一等大切だと言うのだね」


 どこか懐かしむようにも彼は言った。


「それはね、君。原風景と呼ぶべきだろう。


 君の原点がそこにあるんだ。君という人間が形づくられ始めた瞬間が、そこなんだろうね」


 いやなに、大袈裟な言葉を使うつもりはないのだけれど――。老人は肩を震わせてわらっている。


 私は、風のかおりを思い出していた。あの丘の、しめった草と土とを柔らかく撫でる、どこか潮の混じった匂いのする風。やわらか。


 それが鮮明に想起された。


 彼の言葉が、原風景という一単語が、それを為したのだ。


 目の覚める思いだった。彼は自分という人間の半分を言い当ててしまったのだ。


 私は、老獪な人物である彼に、取り繕った話をして会話を済ませようとしたことが急に酷く恥ずかしいことに思えてきて、それきり黙りこくってしまった。


 これ以上なにをどう喋るにしても、自分の口からは取り繕ったことばしか出てこないとわかっていたからだ。


 私は己の不誠実を恥じた。それだけだった。


 老人との会話は長くないうちに終わり、私たちは別れた。それから、予想以上の収入となった金をたずさえて、宿に入って眠りについたのだ。


 朝食をとり終え、荷物を肩に背負って宿を出たところ、行商人を見かけた。明るい気前で商売をしている。


 彼は両脇に商品を揃え、道行く人に声を張り上げていた。そのなかに、琥珀色に輝く玉のネックレスがあった。私はそれを見て、酷く懐かしい気持ちになった。


 絵を描くきっかけが先ほどの話であったなら、今のような放浪を始めたきっかけは全く別のこととなる。


 昔の私、幼少や少年期なんかの頃は、生まれ持った絵画の才を除けば、普通の男児だった。間違っても人生を放浪に賭すような感性は持ち合わせていなかっただろう。

 絵を褒められるのは勿論嬉しいことだったが、それと同じくらいに、他人と笑い合うような、ありきたりな日々の幸せを好んでいた。学問には興が湧かず、運動についても、父譲りの恵体以外には秀でた面などなかった。

 


 十年近く前、十六になってから初めての休日のことだった。その日は両親の結婚記念日だったらしい。やはり彼らは旅行を企てていた。


 その頃の私は背伸びをしたがる年頃であり、また親を敬う気持ちもそこそこにあったので、二人だけで行ってくるようにと断りを入れた。

 僕に家のことは任せてくれ、とも宣った。


 その一人息子を信頼していた二人はそれに異を唱えることもなく、そのとおりに出かけていった。


 その日のうちに、両親は死んだ。


 交通事故だったと聞いている。


 私はその報せを聞いて、死んでしまったか、と思い、その次に、生活をどうしようか、と悩んだ。両親はともに親戚とのかかわりを絶っていたので、頼れる縁がなかった。

 

 泣いた記憶は無い。それを忘れただけなのか、実際泣かなかったのかは知る由もないことだ。


 幸いにも自宅は持ち家だったので住まいを気にする必要はなく、その時の私は既に働ける年だったので、生活に困窮しきる心配もなかった。


 また、予想外のところから助け舟が出た。


 私には幼馴染がいた。親同士が昔からの付き合いだとかで、家族ぐるみで仲が良かったので、父母が死んだ折にはあちらの親がずいぶんと気にかけてくれたのだ。

 それで様々な助けを受け、(金銭などはなるべく断った。)自分の生活の大きな支えとなったりもした。


 養子にならないか、となんとも人の良い打診もされたが、元の家、つまりは両親との想い出を気に入っていた自分は、それを断った。嬉しい申し出であることに相違なかったが、あの家を出ることはしたくなかったのだ。

 そう説明すると、向こうも快く引き下がってくれた。やはり人が良かった。


 代わりに幼馴染の少女がしょっちゅう家の手伝いをしてくれることとなった――自分が頼んだわけではないが、一家そろって世話焼きな人たちだった。


 家事が得意だから、と彼女が胸を張るので、自分はそれに感心し、ならそれを見習おう、と返した。

 家の手伝い(彼女の家は自営業の……何をしていたかは忘れてしまった)で家事をしていた彼女は、その器用さを存分に見せてくれた。

 

 その少女とはそれまで以上に仲を深めた。孤独となった自分にとって彼女の存在はありがたく、少なくとも、その他大勢より優先すべき存在だった。


 今になって思えば、自分は彼女を好いていたのだろう。そしてそれは、彼女にも似たことが言える。あの子も、多少年の近いだけの男子である自分をなにかと気にかけていた。

 

 彼女は長くピアノを習っていた。ピアニストとしての実力がどうであったかなど、知ることはなかったが、音楽に縁のない、ピアノの旋律を初めて聴く自分には、その音色のどれもが特別だった。彼女の演奏を聞くたび、呆気に取られて手を叩いて褒めたたえた。


 耳朶の甘美な震え。この心の感受性の、その奥底がつよく昂ぶった。彼女ほどのピアニストは居ないだろうと信じきり、結局その判断が覆りもしなかった。

 

 幾度とあった彼女の演奏の全てに、本心からの称賛が付いた。彼女もまた私の感想に喜び、いっそうピアノに打ち込んだようだった。

 夏の日の記憶。



 少女とは、いろいろな話をした。自分より少しだけ年上の、高校を卒業し家業を継ぐのだと働いていた彼女は、その朗らかな振る舞いに似合わず、随分と多趣味なひとだった。


 彼女の本棚からくたびれた哲学書が出てきたときには流石に驚いて、呆けて拍手をしてしまったこともまた、妙に鮮明に覚えている。中秋。


 自分もまた読書をそこそこに好み、詩集を読んだこともあった。真似をしていたのだろうか、勇んで読んだ記憶がある。


 ふと、尋ねたことがあった。


――この本のこの一句は、”それまでの人生の積み重ね”、を表しているんだと解釈したけれど、どうしてそれを「雲雀の血」と書いたんだろうかと。


 血は、言葉では濯げないでしょう。彼女は言った。水が必要でしょう、こそぎ取るための布も。匂いを消すのに香水なんかも使えるかも、と。


 それだけあれば、人生を生きられるかもね。


 あんまりにも格好つけて言うので、たまらず吹き出してしまった。でも彼女の言ったとおりになったら、面白いことだと思った。

 照れ笑いをする彼女が、つけ足すように言った。


 君には、それだけで足りるのかな、と少女は尋ねた。

 

 たぶん足りないね、と答えた。僕には、人との対話が必要かも知れないし、あとは、綺麗な景色が欲しい、と付け加えたりもした。


 彼女はそれを聞いて再び微笑んだあと、私も、ピアノを聞いてくれる人がいて欲しいかな、と言った。


 必要なお金のために仕事をして、家事を済ませて、余裕のある日には絵を描く。ときおりその絵を売ることもあり、それらは貯金の少なくない足しになった。

 

 けして豪勢な暮らしではなかった。自分はそれを求める(たち)ではなかったので気にはしなかったが――ただ、いつも人情があった。彼女とおじさんとおばさんと、亡き親からも愛は注がれていた。

 若年にしてそれを幸福の味と知ったのだ。

 

 自分が19になる日には、一足先に二十歳を迎えていたあの子に、いつもみたくピアノを弾いてくれよと頼んだ。それで充分だった。


 その日の暮れ。労働の帰りに、ふと市場の方に立ち寄って露店を覗いてみたりした。その中で一際目を引いた琥珀色の髪飾りを買い、彼女に贈ろうと決めた。

 

 その頃の自分は、他人に感謝することを策していた。それで彼女にも髪飾りなんかをあげてみて、彼女が喜んだりしないかと考えたのだ――彼女の誕生日には、絵を描いてやろうとも思った。


 長髪の似合う人だった。亜麻色の髪を腰まで靡かせるのを見るたびに、綺麗だな、としばしば考えていた。その髪飾りをつけた彼女は、きっと綺麗だろうと思うのだ。


 ――目前の行商人からその琥珀色のネックレスを買い取り、懐にしまう。手中に収めずにはいられなかったのだ。


 かすかに湿った地面を踏みしめて、車の出る待合まで向かう。次の街には今日中に着いておきたい。


――あのとき、露店で支出をこさえた自分は、すっかり得意げになって帰路についた。辺りはすでに暗く、街灯などめったに見えなかったが、心細さなどはなかった。

 期待していたのだ。二人はともに成人であり、将来を憂うべくもないのだと。

 恩返しなどと大仰な言葉を使うつもりはなかったが、しかし彼女の一家には恩がある。自分の人生や能力くらい、きっと注ぎ込んでやれる。そう考えることもあった。


 家について汗を吸った服から着替え、彼女の家に向かった。懐には先ほどの髪飾りを大切にしまい込んで、我慢ならぬ足取りで、なかば駆け抜けるように足を動かした。


 満ち足りた人生だと疑いもなく思った。幸福の定義を議論することほど無駄なことはないじゃないかと考えるほどに、少しの悲愴も無かった。

 


 

 自らの生まれた星を何よりも憎んだのは、その日が最初で最後だった。


 その日、彼女の家には強盗が押し入っていた。店番をしていた彼女の両親は、店頭で刺し殺された。


 家の奥にいたはずの少女も、ピアノに覆いかぶさるようにして喉元から血を流して死んでいた。


 家に着いた自分は、それを取り囲んでいた警察にそう教えられた。


 それらのどれもが、夕暮れの時間帯、つまりは、自分が露店を見て回っていた時間に行われたのだと、その犯人はすでに捕らえられているのだと、そう知った。


 一連の話を聞いて、最初に、またか。と思った。それから、あのピアノは二度と聴けないのか、と考えた。


 


 自分は虚ろな瞳でしばし呆然と立ち尽くしてから、元来た道を、ゆっくりと、長い時間を掛けて歩いて帰った。


 それから判明したことだが、犯人は精神疾患を患っていたそうだ。あのときは錯乱し、衝動的に彼女らを殺したのだ、と。その話の真偽は自分にはさほど重要ではなく、奴が死ににくい立場となったことを漠然と把握するのみだった。


――供述のなかに含まれていたらしい「誰でもよかった」というのが、脳裏にこびりついて離れなかった。


 私たちの地域の警官たちも、私が少女たちと昵懇の仲であり、色々と世話になっていることも知っていた。

 それで、犯人の裁判を観に来るかと聞かれたりもしたが、自分はそういった一切を断った。


 悪人には罪相応の罰が下るべきだろう。とはいえ、自分にそれを見届ける意義はどうにも見いだせなかった。

 罪と罰、悪人にそれだけ相応しいものはない。誰もが生まれながらにして理解することだ。


(では、彼女らは?自分の両親は?罰だというのか、あれが。不慮の事故が、無差別の殺人が、同様に彼女らに相応しい罰だと?)


 目下の問題として、彼女らの葬儀をするべきだった。

 自分は、己の感情を整理し、あるいは他人にぶつけるといった利己的な行動よりも、世話になった彼女らを丁寧に弔うことを優先すべきだった。



 ぼんやりと覚えていたことだが、近所の住人たちのなかには、私がよくないモノに取り憑かれているのだと騒ぎ立てる老人もいた。

 騒ぎ立てた人間そのものに特別興味を持つことはなかったが、それとは別に、もし本当に自分が取り憑かれているのなら、嗚呼、自分はなにをしても真っ当な人にはなれないのだろうな、と考えた。

 

 それは己の罪にあたるのだろうか、今も考えている。


 そうした日々の中で、私はもはや、この街になんの楔も無いことに気付いた。親は事故で死に、少女たちも殺された。

 その他に親しい間柄の人などとくに思い当たりはしなかった。


 私と云う人間には何ものこっていないのだと、少女の棺が閉じられるその瞬間にきづいてしまった。

 この世界が、伽藍のように虚ろになったらしかった。惰性で開いていたまぶたで、その晴れの日の葬儀を眺めていた。

 

 正真正銘の、天涯孤独の始まりだった。


 そのとき、己の運命なんかを憎んだりもした。自分という人間の存在そのものに懐疑を持ち、なぜお前だけが生き残ったのかと自罰をしたりもした。


 明くる日の未来に、希望など持てやしなかった。それまでのけして短くない月日を共に過ごしたひとたちを失ってなお将来に大志を抱くことは、それ即ち自己意識の破滅、精神崩壊の反動を意味していた。



――事件の翌日のことを、鮮明に覚えている。



 インターホンが何度か鳴った気がした。私は窓際の椅子に腰を下ろしたまま、甲高いその音が耳に入っても、視線一つ動かさないでいる……。思考に耽るでもなく、川端の石のように、ぼうっと固まる……。果たして血液はこの身体を流れていただろうか?呼吸さえ不確かである……肺は膨らんでいたか?


 東に昇った日が、西に沈んで随分と経った頃、自分は窓の外に視線を向けた。――黒ずんだ虚空、ひっそりとした夜更けの街は、子どものどよめきすら聞こえてきやしない……不気味。


 どっと熱い息を吐いた。鉛のように重い身体を打ち崩し、冷たい床に無様に転がりうずくまる。


 この世のありとあらゆる恐怖が身を包んだ。とたんに息切れ、動悸が指先まで高まり、瞳がひどく震える……、孤独な夜。


 君は死んだのか。みんなが、死んだのだな。

 父よ、母よ。恩人のおじさん、おばさん。死んだんだな。


 君は死んだのか?みんな死んだのか?こんなにもちっぽけな独りの少年を残して?


 誰も彼もが、私を置いていく。誰も彼もが。


 彼女らが死んだことは、罰だったのか?いったい誰に向けられた罰?彼女らへの、死という罰?少年への、孤独という罰?


 喉が渇いた。お腹が空いた。頭が痛い――すぐにでも対処できる……孤独は?死は?


 窓の鏡に反射するものを見た。獣。この世のなによりも醜い表情、口元も眉根もひどく歪んでいる。眼光は鈍く、夜光を受けて燻った光を反射する……しかし、よく見てみるとわかることもある。

 

 どうしてだろうか、その両目はしかと開かれている。呼吸は正常、脈も問題ないだろう。


――そうか。絶望しきったところで、精神が身体を壊し切ることなどないらしい。


 ふらりと、立ち上がった。生存欲求を順に満たしていく。それから、ぜんまいの切れた人形のように、ベッドに倒れ込んだ。やがて泥のように眠りこける……。


 永い日々の、始まりだった。



 幸いにも、お金に困るわけではなかった。少女の思慮深い両親は、あらかじめ、その一家に何かがあったときは、少女もしくは私にその遺産が渡るようにと一計を案じていたのだ。(あの人たちはその何かを引き当ててしまったわけだ。)


 死してなお、彼らは少年に施しを与える。


 私はそれを知って安心などできなかった。それに喜ぶことというのは、金という財産に目を奪われるのは、三人に対する侮辱に近い気がしてしまったし、そんな金銭が増えたところで死んだ彼女らの葬儀を手厚くすること以外に使い道も考えたくなかった。

 

 本音を言えば、(当然のことだが)お金なぞよりも、三人の方に生きていてほしかった。


 ふとした瞬間に、どこからかピアノの音が聞こえた気がして、そのたびに誰が弾いているのかと探してしまう。そういった習慣がその頃の自分にはあった。


 (その習慣がなくなった頃には、却って本物の音色を聴くことがなによりも恐ろしく、心を抉られるようになった。)



 そうして事件から二週間ほどが経った頃、三人の墓も無事に整い、彼女らは地の下に埋まった。 それはこれまでの(それからも)人生の中で最も早く過ぎ去った二週間であった。

 それらは乱雑にめくられた本の頁のような日々で、ほとんど覚えてはいなかった。


 悲しみ、あるいは後悔による慟哭――それらは不思議と心に浮かぶこともなく、従って私は泣き喚くこともなかった。こうも非情な人間だったのだろうかと、思い悩んだ。

 いやしかし、失ったのはそれだけか?


 そうして、笑いや怒り、驚愕などといった喜怒哀楽の感情表現の多くを失ったことに気が付いた。

 あの人たち、まさか自分の感情表現まで持って行ったのだろうか――口角を上げて、不格好にわらってみた。下手くそな笑顔を鏡の中に見出して、シケた。


 その瞬間、人が空っぽになるということが何なのか、理解できた。


 人が絶望の淵に追いやられたとき、自決を考えるものもいるだろう。しかし私は、それを考えることはしなかった。

 なにも大層な信念が邪魔をしたわけではなく、ほんのちいさなきっかけ、つまりは約束があったからなのだ。


 

 私の描く絵は、ほとんどが風景画だった。(物心もおぼつかない幼少のころに初めて描いたのが、窓の外の景色だったぐらいだから、筋金入りだろう。)


 その中に一つだけ、人物画を描いたことがあった。やはり彼女の絵だった。十歳ほどで描いたのだったか。


 それを見て彼女はたいそう喜んでみせた。物欲しそうな顔を見せたものの、とうの幼い画家が苦虫を噛んだような顰め面で描き上げた絵を見つめるものだから、すっかり諦めたのか私に手渡してきた。


 己の不甲斐なさを心の底から呪っていたのだと思う。面と向かって言えたことではなかったが、この絵より、本物の彼女のほうが、ずっと美しいじゃないか、などと考えていた。あまりにも悔しかったのだろう。よく覚えている。


 ただ、どうしてだろうか。そこまで悔しい思いをしても、二度と人物画を描く気にはならなかった。はたりと諦めて、風景画に心血を注ぐようになっていた。


 彼女はいつもどおりに描き上げた風景画を見ても、やはり私を褒め称えた。それは、けっして、年上特有の甲斐甲斐しさから来る配慮ではなく、(まるでピアノを聞いた少年のように、)本心からの感嘆だった。


 17になる頃、彼女は言った。


 君の描く絵は色んな人に見られるべきだ、と。


――君の絵を見てると、どこからともなく、懐かしさみたいなものがこみ上げてきて、温かい気持ちになれるんだよ。


 きっと君の絵を必要に感じる人が、この世界の、どこにでもいるに違いない、と。


 だから、絵を辞めないで欲しい、と言った。それは彼女のわがままであったが、結局、自分の人生の指針となった。


 少年はその言葉に露ほども疑いを持たず、ならば、僕の絵が遠くにも届くようにしよう、と決心した。


 その時の光景を、鮮明に覚えている。親が残した少年の家の、居間の窓際に二人は隣り合って座っており、傍らには斜陽が淡い光をともなって、うすく差し込んでいる。


 約束だった。すくなくとも自分はそう覚えている。

 果たさなければと脳裏にきざんだ。懸想、その表れだったのだろうか――。


――老人に話さなかったこと、しかし、その光景もまた原風景の片割れであろう。今もなおこの心の深いところに沈んでいる……。まさしくこの人生の半分だ。


 そうして、葬儀も終わり日々に区切りがついたころ、私は約束を果たすための準備を始めた。


 

――放浪を始めてから、ほとんどの絵に買い手がついた。その需要が見事に言い当てられていたように感じて、また彼女に感心した。


 もとの家は売り払った。なんの楔も残っていない街に、我が家があったところで扱いに困ったのだ。大概の家財もそれなりの値段で売れた。(買い取り屋の老夫婦が情で相場より高く買い取ってくれていた。)


 わずかなもの、薄衣の白いカーテンや、黒いマグカップを少女の家に残した。


 少女一家の家については、何にも手を付けなかった。私の為にと遺されたとしても、それはやはり彼女らの家なのであって、私が帰属すべき場所ではないのだ。

 家の清掃だけをさっぱり済ませて、家具や小物など、目に映る全てをそのままにした。特に、店の入口と、ピアノの部屋は、何ひとつ変わることのないようにと、細心の注意を払った。


――今にして思えば、私は、その家にいくつもあったのだろう思い出を壊したくなかったのだ。

 それは彼女らへの一種の贖罪だった。


 それら全てを終えて、私は、何かから解放されたような、そんな感慨に包まれた。


 そしてすぐに、街を出る決意をした。


――この場所にある思い出を独りで直視することほど堪えるものはなかった。深く抉れたこころに、それを耐えるほどの強さを持っていなかった。


 堪らずに絵を描いてみた。街を出る準備をしてはその合間に描き続けた。少しばかり気晴らしになった。


 それらの少年期を経て、あと半年で二十歳になるという頃に、私は放浪を始めた。


 決行は真夜中に行われた。月が出ていた。浅い角度にたゆたう……夜は永いのか。ゆったりとした場所に浮かぶ月はどう思ったろうか。青年がひとり、人目を避けしかし堂々と、夜街を飛び出し人生を放浪しようとする。憐れむか?嗤うか?――その月の顔はいつかの醜い獣だろう!


 夜は永い。あやつはその時間いっぱいを使って夜空を流れ、やがて郷愁に満ちた夜明けを過ぎた頃にまたゆったりと沈むのだ――。


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