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短編集 原風景   作者: 潮戸 あお
絵描きの男
4/4

琥珀色 下



 小一時間ほど待機していた待合を出て、到着した車両に乗り込む。今でこそ旅には慣れたものだが、最初からそうなるべくもない。


 慣れぬ旅には絶えず困難が付き纏い、それらはまさしく破天の海の荒波に等しかった。二十九日間を無に等しい端金で生きたことも時にはあった。


 二カ月目で、人の家に転がり込んで絵を描くことを覚えた。それまでの生活に比べ革新的なそれは、己を気前よくさせ、なかば押し付けるように絵を家主に贈った理由となった。


 冬の日、ある街で女に声を掛けられた。放浪だと言えば、家に来なさいと云う。人の家に転がり込むことに味を占めていた私は、嬉々としてそれに従った。


 夜。少女から習った腕で夕食をつくり(女は夕餉に酒を取り出し、青年をも酔わせた)、それで女を満足させたあとのこと。


 真夜中、突如として女は私を押し倒した。


 戸惑った。この身は女を誘ったか?


 昂ぶった。この身が欲を忘れたか?


 姦淫の罪……躊躇いなく犯された罪。


 明くる日の朝、私は猜疑に満たされた。それは自罰の兆候だった。


 淫楽に身を委ねた――出会って間もない女と?

 はじめてだった。

 

 この指が罪を犯したと考えた。

 総じて、並々ならぬ思いばかりだった。困惑と失望とに身体中が支配される。


 寝ぼけ眼で目覚めた女は、取り乱す男を見て、宥めるようにその潤ったくちびるを歪めた。


 寒いでしょう、服を着なさいなと、女が言った。飄々とした態度を見て、私はことの発端となった彼女を糾弾したかった。お前、なぜ僕を押し倒したのだ。なぜだ。と、言えるわけもなかった。この女が私に欲をぶつけたところで、それを罪とは言えなかった。


 震える身体を押さえつけながら、シャワーを浴びて朝食をとる。


 横にいた女、そいつは私が苦心していると理解した。それでなにを思ったか、自分を驚かせようとしたのだ。


 女は食卓の脇にある、大きな布で覆われた物体から布を払い取った。それはピアノだった。突然のことで驚いた私は、それを弾こうとする女を止められなかった。


 女は、それを善意でやったのだろう。私は過去の話などなにもしなかったのだから。


 旋律を聴いた瞬間、身体の全てが拒絶を起こした。

 耳の裏が粟立って、全身に鳥肌が走る。ひどい吐き気がした。全身の血がごうごうと巡り、そこら中の血管がはち切れてしまうのではないかと思った。


 震える声で尋ねる。ピアノは、長く習ったのか。いいえと女はかぶりを振る。2年ほど前の貰い物を、少しずつ練習してみたのだと。そう言って、笑う。


 お気に召さなかったかしらと首を傾げる女にいいやと弁明しながら、席を立つ。


 いんや、悪いが早めに出ようと思ってね。宿と飯と、本当に助かった、ありがとうございました。そう言って床に置かれていた鞄を肩に掛けた。すこし埃がくっついている。あの子なら床に埃なんか放っておかないというのに。


 まだいればいいのにね、と宣いやがる女に何も返さず、自分は勇み足になるのをこらえながら外に出た。



 この一夜こそが罪だろうと、揺れる視界のなかで考えた。ふらりふらりとよろめくように歩いている。

 罪悪感に身を包まれていた。なんの罪悪感かと言えば……ああ、なんだろうか。ふと、立ち止まる。


 少女への罪悪感?不貞を働いたとでも?いいや、そもそも結ばれてすらいない……彼女が悲しむと思った?


 自分が赤の他人の女とまぐわうことで、彼女が悲しむのではないかと、ほんの少しでもそう考えたのか。


 そんなもの、身勝手な空想だ。あの子の心のうちはあの子にしか分からず、それを自分が推し量って決めつけるべきではないだろう。


 ……いいや、悲しまないとも限らないのか。

 嗚呼、駄目だ、堂々巡りの思考に終わりなど無いだろう、彼女がどう思ったところで、この頭が罪悪感を覚えたのは確かなのだ。ならば、ならば、己が認識し自戒するうちはそれは罪であって………。


 誰が罪を犯した?私だ。

 何の罪を犯した?姦淫の罪だ。

 なぜそれを犯した?この身が欲を持っていたからだ。

 

 なぜ、それを罪と考える?


 ……彼女を一等大切に想っていたと云うに、それに事欠いて名前も知らぬ女をあっけなく抱いたからだ。

 彼女の人生は、きっと少なからず自分が占めてきた。あの子に頼り、対話をし、ピアノを褒め称え、わらっていた。

 きっと、その一途な少年を、悪しからず思っていたのだ。


 だから、その一途を、誠実さを貫き通すべきだったのだ。それこそがこの身の純真さの証明だった。彼女に胸を張れる人生を送ることの大切さと言ったら………。


 果たして、純真を守る必要があるのか?


 冬風の吹き付ける街道の中、独り歩く私はぴたりと立ち止まった。

 

 この人生は、絵を描くためにできている。生まれ持った才も、培った経験も、それを如実に示している。今さらそれに疑いを持ちやしない。なら、その絵という感性の発露に、穢れなき魂は必需だというのか?


 思うに、何の変哲もない人生だったなら。――つまり、親も死なず、少女たちとも普通の域を出ない関係のままだったなら、自分はこの生涯を絵に賭してはいなかった。

 趣味で描くことはあろうと、そこに決死の想いはなかっただろう。今の自分の全ては彼女との対話から生まれたのだ。


 お互いの感性を認め合い、感心し――その手段ばかりに、心を通わせる術を頼っていた私たちだからこうなったのだ。


 だがどうだろう、彼女が遺した約束は、絵を辞めないで欲しいという一点ばかりで、正しく清らかな人間であることなど望んではいなかった。

 そう、そんな言葉はどこにも無かった。


 ならば、この手が穢れることがあったとしても、彼女に顔向けできないことをしてしまっても、それが絵を描くことに、約束を果たすのに差し支えさえなければ、構うことはないだろう。


 つまりは、罪にまみれた感性を、私は拒んではいけないのだ。むしろ、甘んじて受け入れるべきなのだ。


 そう、穢れを重ねて、重ね続ける中で絵を描いて、その感性の変化をわずかに抽出していくような工程があって良いのだ。

 むしろそれは、良いインスピレーションになるかもしれない。


――人生の転換点を三つ挙げるならば、この発想が最後の一つになる。その選択は、もはや取り返しのつかない岐路でもあった。


 舗装のない道を走る車内で、振動に揺さぶられながら口のなかで呟く。


 未だ旅路は終わりの兆しを見せていない。私の絵描きはこれからも続き、約束の果てるところを見いだす必要があるのだ。


 だから、私は歩き続けなければいけない。


 琥珀色のネックレスの温かみを懐に突っ込んだ手で感じ取りながら、私は目的地までの眠りについた。











 親愛なる少女、ユーリへ。


 元から大差のなかった貴方の年齢を追い越してから、また数年が経ちました。来週にあなた方の命日があったはずですので、それまでには帰ります。少し前に琥珀色のネックレスを買ってみたのです。飾っておきます。


 いつ振り返っても、ずいぶん恵まれた人生でした。なぜかと言えば、貴方の為に絵を描こうと思うだけで、生にしがみつけるほどの経験を持ったからです。


 たとえ、一生の独りぼっちになったところで、簡単には諦めがつかなくなったのです。それは、このちっぽけな男の胸の奥深くに刺さった楔があるからです。


 じつのところ、その楔こそが私の人生の支えだった。


 貴方達を失ったという悲しみ、それこそが楔の正体であり、私を生かし続けている。歩みを止めぬようにと脳をせめぎ立てている。酷い矛盾と笑いますか?


 貴方は、私が描いた絵をよく称賛してくれました。私にはそれが日々の喜びそのものだった。


 貴方は私に言葉を残しました。色んなところに私の絵が届いて欲しい、と。その本心なんかは、私には、まるで分かりません。宿願だったのか、ほんの余興のような心だったのか、けして分かりません。だって聞こうにも、とっくに貴方は死んでいますから。


 でも、貴方がその言葉を残したのは確かです。ですから、私はそれに縋ったのです。世の中の人も、大抵そうでしょう。人と人とが完全に分かり合うことなどないのだと、そう知っているから、分かたれた人が残した、確かなことばに縋るしかないのでしょう。


 なによりもちぐはぐて、どこまでも曖昧な、そんな言葉に頼るしかないのでしょう。

 それが悲しいことだとは思いません。それは前向きな行動とも言えるのでしょうから。


 ユーリ、私は覚えています。あの丘に立つ自分自身を、その上を流れる青空と雲と、短く生える草っぱを。きっと、もの一つさえ言わずにその空間のすべてを五感に焼き付けていたんでしょう。

 西日差す窓際の、頬杖をついてこちらに笑いかける貴方を。その美しさを。忘れられないでいる。


 ずっと覚えています。その光景を。胸の奥、心臓よりもずっと深いところへ刻みつけて覚えています。


 それから、貴方が言葉を残したように、私は絵を残しましょう。もう既に色々な人に売り渡しましたが、まだ足りないでしょうから。景色を見て、ほんの数瞬の夕焼けに心打たれて、そうやって描き続けます。


――言葉を残してみようかとも思いましたが、知人に書いた詩を見せたとき、感心とも呆れとも取れない薄ら笑いを浮かべさせてしまったので、まあ、それではダメなんでしょう。


 罪を犯しました。貴方に顔向けできない罪を。穢れた感性になるでしょう。優しかった貴方さえ呆れ果ててしまうやもしれない、そんな罪がこの心に堆積していく。穢れた人間が出来上がるのです。


 けれど、そんなものからも芸術は生まれてしまう。それを、偽物だと糾弾することなど、たとえ貴方にも出来やしない。


 赫く燃え盛る火に炭を焚べるように、その感性で絵を描きましょう。この両の手の、罪に塗れた指先で、いつまでも筆を守って、描くのです。その火は、随分燃え盛るでしょう。何よりもきらびやかに輝く、立ち消えぬ炎となるでしょう。

 燃えて、燃えて、燃やし続けて、灰になっていくのです。

 いつかは、燃え尽きるでしょう。それは、死と何一つ変わらないことかもしれない。

 

 赫灼の日の出を見ても、目を細めることもなくふいと顔を逸らすような、死んだ魚の目をするつまらない人間になるかも知れません。


 ですが、先ほど申し上げたとおり、このちっぽけな男には、それこそが本望なんです。


 きっといつかは、貴方へ抱いた想いも忘れる。絵を描く理由すら忘れる日が来るかも知れない。いつかはこの伽藍のような世界も満たされるかも知れない――けれど、それは忘却により満たされるのではない。

 想い出を捨てることで得られるのは、いっときの安堵だけですから。


 私という人間は、伽藍のような存在になったと同時に、ずいぶん拗れてしまいましたから。その拗れた人間には、まともな術で自らを満たすことなど出来やしない。

 分かりますか、貴方たちとの日常で満たされていたあの少年は、どこにもいないのです。


 だから、自らを嘲笑って、感性を罪に浸して、同じくらいの善行で人と対話して、絵を描いて、また夢を見て。その腐り果てた地獄のような日々の果てに、満たされるかどうかも分からない生涯の意味を、いつか見出すのです。

 

 私の人生を貴方に捧げるこの歓びを、どうか悲しまないで。

 

 貴方の為に生きること、それを始めるには遅かったのかもしれません。


 いつか描いた貴方の絵を、捨てなければよかった。


               

             1974年 10月21日 

参考: ラヴェル―亡き王女のためのパヴァーヌ

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