第9話:尊敬という名の仮面が、剥がれた音
第9話です。
ついに「尊敬」という防波堤が決壊します。
自分以外の誰かに向けられる「平等な優しさ」が、凛の心を追い詰め、爆発させます。
「――佐倉。昨日の件、フォローありがとう。助かった」
午後の会議室。九条さんは資料を片付けながら、隣を歩く私に短く言った。
先日のトラブルは、九条さんの采配と私たちの必死のサポートで、なんとか最悪の事態を免れたのだ。
「いいえ。……九条さんの役に立てたなら、それで十分です」
本心だった。彼のために走り回った時間は、何物にも代えがたい高揚感があった。
けれど、視線の先では九条さんが、廊下ですれ違った他部署の後輩女子に「あぁ、例の資料。良かったよ」と、私に向けていたのと同じ、完璧で優しい微笑みを向けている。
胸の奥が、冷たい水に浸されたように重くなった。
(……わかってる。わかってるんだ。彼はリーダーで、みんなの上司なんだから)
尊敬。その言葉はなんて便利で、残酷なんだろう。
尊敬しているから、彼の隣にいたい。
尊敬しているから、彼の仕事を支えたい。
でも、もし私が九条さんを「尊敬」という言葉で縛り付けていなかったら。
今、あの女の子に向けられた笑顔に、こんなに殺意に近い嫉妬を抱かずに済んだのだろうか。
「佐倉? 顔色が悪いぞ。まだ疲れが残ってるんじゃないか」
九条さんの手が、心配そうに私の額へ伸びてくる。
いつもなら、その体温に舞い上がっていただろう。けれど今は、その「上司としての真っ当な心配」が、何よりも私を拒絶しているように感じられた。
「……九条さん」
「ん?」
「もう、私を『部下』として見るの、やめてもらえませんか」
口に出してしまった。
九条さんの動きが、止まる。
廊下の喧騒が遠のき、世界から音が消えたような錯覚。
九条さんの瞳から「上司」という穏やかな色が抜け、代わりに戸惑いと、それから、今まで見たこともないような鋭い光が宿る。
「……佐倉。何を、言って――」
「尊敬だけじゃ、もう嫌なんです。私は、九条さんの何になりたいのか。……自分でも、もう抑えられなくて」
バリッ、と。
自分の中で「尊敬」という名の仮面が、派手に剥がれ落ちた音がした。
九条さんの顔が、わずかに歪む。
それは恐怖か、困惑か。あるいは――。
私は、逃げるように彼から視線を外し、足早に自分のデスクへと向かった。
あぁ、ついに言ってしまった。
もう、後戻りなんて、できるはずがないのに。
お読みいただきありがとうございました!
ついに「部下でいること」を拒否した凛。
42歳の九条さんにとって、26歳の真っ向からの「否定」は、何よりも動揺を誘う一言です。
次回、第10話は「嫉妬は、雨の日のオフィスで熱を帯びる」。
気まずくなった二人を、さらに追い詰めるような雨が降り注ぎます。
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