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誰にでも優しい九条さんの、私だけの特権。~「いい部下」をやめた二十六歳の攻防戦~  作者: 寝不足魔王


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9/20

第9話:尊敬という名の仮面が、剥がれた音

第9話です。

ついに「尊敬」という防波堤が決壊します。

自分以外の誰かに向けられる「平等な優しさ」が、凛の心を追い詰め、爆発させます。


「――佐倉。昨日の件、フォローありがとう。助かった」


 午後の会議室。九条さんは資料を片付けながら、隣を歩く私に短く言った。

 先日のトラブルは、九条さんの采配と私たちの必死のサポートで、なんとか最悪の事態を免れたのだ。


「いいえ。……九条さんの役に立てたなら、それで十分です」


 本心だった。彼のために走り回った時間は、何物にも代えがたい高揚感があった。

 けれど、視線の先では九条さんが、廊下ですれ違った他部署の後輩女子に「あぁ、例の資料。良かったよ」と、私に向けていたのと同じ、完璧で優しい微笑みを向けている。


 胸の奥が、冷たい水に浸されたように重くなった。


(……わかってる。わかってるんだ。彼はリーダーで、みんなの上司なんだから)


 尊敬。その言葉はなんて便利で、残酷なんだろう。

 尊敬しているから、彼の隣にいたい。

 尊敬しているから、彼の仕事を支えたい。

 

 でも、もし私が九条さんを「尊敬」という言葉で縛り付けていなかったら。

 今、あの女の子に向けられた笑顔に、こんなに殺意に近い嫉妬を抱かずに済んだのだろうか。


「佐倉? 顔色が悪いぞ。まだ疲れが残ってるんじゃないか」


 九条さんの手が、心配そうに私の額へ伸びてくる。

 いつもなら、その体温に舞い上がっていただろう。けれど今は、その「上司としての真っ当な心配」が、何よりも私を拒絶しているように感じられた。


「……九条さん」

「ん?」

「もう、私を『部下』として見るの、やめてもらえませんか」


 口に出してしまった。

 九条さんの動きが、止まる。

 

 廊下の喧騒が遠のき、世界から音が消えたような錯覚。

 九条さんの瞳から「上司」という穏やかな色が抜け、代わりに戸惑いと、それから、今まで見たこともないような鋭い光が宿る。


「……佐倉。何を、言って――」

「尊敬だけじゃ、もう嫌なんです。私は、九条さんの何になりたいのか。……自分でも、もう抑えられなくて」


 バリッ、と。

 自分の中で「尊敬」という名の仮面が、派手に剥がれ落ちた音がした。

 

 九条さんの顔が、わずかに歪む。

 それは恐怖か、困惑か。あるいは――。

 

 私は、逃げるように彼から視線を外し、足早に自分のデスクへと向かった。

 

 あぁ、ついに言ってしまった。

 もう、後戻りなんて、できるはずがないのに。


お読みいただきありがとうございました!

ついに「部下でいること」を拒否した凛。

42歳の九条さんにとって、26歳の真っ向からの「否定」は、何よりも動揺を誘う一言です。


次回、第10話は「嫉妬は、雨の日のオフィスで熱を帯びる」。

気まずくなった二人を、さらに追い詰めるような雨が降り注ぎます。


続きが気になる!と思ってくださったら、ぜひ応援をお願いいたします!


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