第8話:その優しさは、私だけじゃないから苦しい
第8話です。
距離が縮まったと喜んだ直後の、手痛い現実。
「誰にでも優しい」上司という生き物の残酷さと、ヒロインの心の揺れを描きます。
昨夜のココアの余韻。
ほんの少しだけ九条さんの懐に入り込めた気がして、私は少し浮足立ちながら出社した。
けれど、オフィスに入った瞬間に見た光景が、私の心を急停止させる。
「九条さーん、これ! 出張のお土産です。九条さん、甘いものお好きでしたよね?」
デスクで九条さんを囲んでいるのは、他部署の後輩女子。
彼女が差し出した高級そうなチョコレートを、九条さんはいつもの「完璧な笑顔」で受け取っていた。
「あぁ、ありがとう。ちょうど糖分が欲しかったんだ。助かるよ」
九条さんのその声は、昨夜、私だけに向けられたと思っていたあの低いトーンと同じだった。
――あぁ、そうだった。
この人は、誰にでも優しい。
誰にでも平等で、誰に対しても適切な距離を保ちながら、相手が欲しがっている言葉を差し出せる人なのだ。
私が必死に見つけ出した「甘党」という彼の隙間も、他の誰かにとっては既知の情報でしかないのかもしれない。
「佐倉、おはよう。……どうかしたか? そんなところに突っ立って」
九条さんが私に気づいて手を挙げる。
その仕草も、声も、昨日と何も変わらない。
昨夜、私の前で吐いた溜息も、弱音も、彼にとっては「部下との円滑なコミュニケーション」の一環に過ぎなかったのだろうか。
「……おはようございます。何でもありません、仕事します」
私は逃げるように自分の席に座り、パソコンを立ち上げた。
画面が明るくなるのを待つ間、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
尊敬しているから、彼の優しさが嬉しい。
でも、その優しさが「私だけのもの」ではないと突きつけられるたびに、私は自分の立ち位置を見失いそうになる。
九条さん。
あなたの『適切』は、私にとってはどうしようもなく残酷です。
キーボードを叩く指が、少しだけ震えていた。
この痛みの正体を、私はもう「尊敬」なんていう言葉で誤魔化すことはできなかった。
お読みいただきありがとうございました!
自分だけが知っていると思った秘密を、他の人も知っていた時のショック。
26歳の凛にとって、42歳の大人の「全方位への余裕」は、高すぎる壁に感じられます。
次回、第9話は「尊敬という名の仮面が、剥がれた音」。
ついに凛の感情が、制御不能な領域へと踏み出します。
もし凛を応援したくなったら、ブクマや評価で背中を押してあげてください!




