第7話:大人な彼が、不意に見せた溜息の価値
第7話です。
仕事のトラブルで疲弊する九条。
完璧な上司が見せる「弱音」は、恋するヒロインにとっては最高のご馳走かもしれません。
凛の「糖分」作戦が功を奏します。
「……はぁ」
深夜近く。フロアに残っているのは私と九条さんの二人だけ。
静まり返ったオフィスに、重く、深い溜息が落ちた。
九条さんはパソコンの前で力なく背もたれに体を預け、眼鏡をデスクに放り出している。
昨日まで私を徹底的に突き放していた「鉄壁の上司」の姿は、そこにはなかった。
どうやら、進行中のプロジェクトでトラブルがあったらしい。
クライアントからの無茶振り、外注先のミス。
どんなに彼が優秀でも、一人ではどうにもならない理不尽が、大人の世界にはある。
私は無言で席を立ち、給湯室へ向かった。
いつものコーヒーじゃない。棚の奥に隠しておいた、とっておきのスティックココア。
お湯を注ぎ、これでもかと甘い香りを立たせる。
「九条さん。糖分補給、失礼します」
そっとデスクに置くと、九条さんは顔を上げた。
赤くなった目。少しだけ乱れた髪。
「……佐倉。悪い、まだいたのか。……これ、ココアか?」
「はい。タバコよりも、今の九条さんにはこれが必要だと思ったので」
九条さんは一瞬、拒絶するかのように眉を寄せたが、漂ってくる甘い誘惑に勝てなかったらしい。
ゆっくりとカップを手に取り、一口啜る。
「……っ、甘いな。……甘すぎる」
「それくらいじゃないと、その溜息は消えないでしょう?」
私が隣に椅子を引いて座ると、彼は「また距離を詰められた」という顔をしたが、追い出す気力も残っていないようだった。
「……佐倉。俺は、君が思っているほど立派な人間じゃないよ。こうして余裕をなくして、溜息を吐いて……情けないおじさんだ」
自嘲気味に笑う九条さん。
でも、私にはその「情けなさ」こそが、どんな完璧な指示よりも価値があるものに思えた。
誰も見ていないところで、一人で背負って、一人で溜息を吐いて。
その重さを、少しでもいいから私に分けてほしい。
「情けなくなんてありません。私は、その溜息を吐ける九条さんの隣にいたいんです」
私はそっと、彼のデスクにある眼鏡を手に取り、クリーナーで拭き始めた。
「九条さん。明日、私もそのトラブルの対応、手伝わせてください。……『部下』として、完璧に働いてみせますから」
九条さんはココアを飲み干し、眼鏡を受け取ると、ふっと力みの抜けた笑いを見せた。
「……あぁ。頼むよ、佐倉」
突き放されていたはずの距離が、甘い香りに溶けて、ほんの少しだけ縮まった夜だった。
お読みいただきありがとうございました!
苦いタバコの煙よりも、今は甘いココアの優しさが染みる42歳。
凛の「支えたい」という純粋な熱意が、九条さんの意地を少しだけ溶かしました。
次回、第8話は「その優しさは、私だけじゃないから苦しい」。
少し距離が縮まったからこそ見えてくる、九条さんの「平等な優しさ」に凛が悶々とします。
評価やブックマークをいただけると、凛の攻勢がさらに激しくなるかもしれません……!




