第5話:灰皿越しに、一度だけ目が合った
第5話です。
「上司と部下」という言葉の裏側に隠れていた、一人の男と女の感情がぶつかり合います。
灰皿を挟んだ一瞬の静寂。そこにある熱量を感じていただければ。
スーツの裾を掴んだ私の手。
わずかな沈黙の後、九条さんはゆっくりと振り返った。
その表情は、いつもの穏やかな上司の微笑みではなく、どこかひび割れたような、危うい無表情だった。
「……佐倉。その手、離しなさい」
低く、抑えられた声。
叱責というよりは、自分自身を律しているような響き。
私は、震えそうになる指先に力を込めて、首を振った。
「嫌です。……離したら、九条さんはまた『上司』の顔をして、どこかへ行ってしまうから」
九条さんは深く、深く溜息を吐いた。
そして、灰皿に残った煙の最後の一筋が消えるのを待つように、視線を落とす。
「君は……本当に、怖いもの知らずだな。俺が君の親でもおかしくない年齢だって、わかってるのか?」
「親だなんて思ったこと、一度もありません」
私が言い切ると、九条さんはようやく、私の目を真っ直ぐに見た。
灰皿を挟んで、至近距離で重なる視線。
眼鏡の奥にある彼の瞳は、ひどく熱を帯びていて、それでいて泣き出しそうなほど寂しそうに見えた。
いつも完璧な彼が、たった一人の部下の我儘に、ここまでペースを乱されている。
その事実に、私の胸は甘く痺れた。
「……ずるい人」
「何がだ」
「そうやって、すぐに『大人』の理屈で逃げるのが。私、本気で言ってるんですよ?」
九条さんは、ふっと視線を外して、空になったコーヒーの缶を手に取った。
その指先が、私の指に微かに触れる。
昨日まではあんなに遠かった距離が、今はタバコ一本分の長さしかない。
「……コーヒー、ありがとう。冷める前に飲むよ」
彼はそれだけ言うと、今度こそ私の手を優しく解き、喫煙所の外へと歩いていった。
扉が閉まる間際。
一度だけ、彼は振り返った。
灰皿越しに目が合ったその一瞬、彼の唇がわずかに動いた気がしたけれど、換気扇の音にかき消されて、私には届かなかった。
残されたのは、換気扇が回る音と、残り香だけ。
でも、私は確信していた。
九条健人の「完璧な距離感」には、もう、致命的な亀裂が入っている。
お読みいただきありがとうございました!
「おじさん」という壁を必死に盾にする九条さんと、重戦車のように突っ込んでいく凛。
第5話にして、ようやく二人の視線が「本当の意味で」絡み合いました。
次回、第6話は「佐倉、ここは君の来る場所じゃないよ」。
九条さんからの、ちょっぴり切ない反撃(?)が始まります。
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