不憫な種明かし
親蠍の巨体が完全に沈黙したのを確認すると、ナギが大きく息を吐き出しながらこちらへ歩み寄ってきた。
やがて俺の隣へと膝行で近づき、無言のまま両手を翳す。
「……大した怪我は、無さそうだけど」
淡い光が彼女の手のひらから零れ落ち、俺の身体へと吸い込まれていく。
【治癒】だ。
巨鋏の初撃を受けた際の全身の軋みと、限界まで身体を酷使した疲労が和らいでいくのが、じんわりと感じられる。
「ああ、大きな損傷は無い」
俺が短く応じると、ナギはホッと安堵の息を吐いた。
俺はマジックバッグから青い液体が詰まった小瓶を取り出し、二本並べる。一本の栓を抜いて一気に煽ると、枯渇していた魔力回路にマナが染み渡っていくのを感じた。
もう一本を、ナギへと差し出す。
「お前も飲んでおけ。攻撃に牽制、指輪への魔力供給……そして、今のヒールだ。マナも底を突いているだろう」
「……ええ、そうね」
ナギは素直に小瓶を受け取り、そっと口をつけた。
青い硝子瓶の縁に、ほんのりと桜色に色づいた柔らかな唇が押し当てられる。
こくりと細い喉を鳴らして液体を飲み下すと、荒くなっていた彼女の呼吸が、次第に落ち着きを取り戻していく。
一息ついた俺は、床に突き刺さったままの相棒へと歩み寄った。
その柄に手をかけ、ゆっくりと引き抜く。
「……お前にも助けられたな」
低く声をかけると、刃の奥に宿る蒼い光が、心なしか一度だけ強く瞬いた気がした。
『凍喰』を鞘へと収め、俺は崩れ落ちた親蠍の巨体へと視線を向ける。
「……さて、素材の回収に移るぞ」
「これ、全部持ち帰るの? 流石にこの巨体じゃバッグに入り切らないわよ」
「分かっている。ギルドの依頼書にあった指定部位と、俺たちの装備に使えそうな部分。あとは何より獄零鋼を回収する」
あの非常識な硬度を誇る装甲を、ただの解体用の短剣でどうにかできるはずもない。俺は短剣にマナを流し込み、『鋭利化』と『硬度強化』の術式を重ね掛けした。
俺は強化された刃を関節部へと慎重に滑り込ませ、最高級の武具の素材となる大鋏と、神経毒を蓄えた尾の先端、そして錬金術の触媒となるであろう内臓の一部を選別して切り出した。
「やっぱり、一番価値があるのはその殻の破片よね?」
「ああ、本命はこれだ」
ハンマーで叩き割った脳天の殻。最も厚く、永い時を経て鋳鍛され続けた純度最高峰の『獄零鋼』の破片を、一つ残らず丁寧に拾い集めていく。
それらを鞄式のマジックバッグの口を広げて限界まで詰め込み、フラップを閉じた。
「これで回収は終わりだ。……長居する場所でもない、上に戻るぞ」
「ええ、賛成よ。こんな……息をするだけで苦しい場所、もう限界だったから」
俺たちは万年氷とマグマのぶつかり合う断層の底面に背を向け、来た道を戻り始めた。あの蠍が抉り進んだ横道を、今度は上りに向かって歩いていく。
周囲を警戒しながら歩く中、ナギがふと、周囲の岩肌を見回しながら口を開いた。
「ねえ。……獄零鋼の鉱石って、あの蠍たちに全部食い尽くされちゃったのかしら? 結局あの場所では、どこにも見当たらなかったけれど」
俺は暗い坑道の先を見据えたまま、淡々と答える。
「いや……ドルンの口ぶりから察するに、普通の鉱石のように地層から採掘する類のものではないのだろう」
「どういうこと?」
「この場所は、極限環境だ。片方からはマグマの熱気が、もう片方からは万年氷の冷気が絶え間なく衝突している。その特殊なマナに長時間晒され続けた『岩石そのもの』が、永い年月を経て変質した結果が、獄零鋼なのだろう」
「……なるほど。じゃあ、いずれまた採れるようになるのね」
「ああ、恐らくな。……まぁ、蠍をすべて倒したという保証もないのだが」
「……え?」
「小蠍の生き残りが地面の底にでも潜んでいれば、数年後にはまた大きくなって、ここに根付く可能性もあるだろう」
俺が事実を口にすると、ナギは心底嫌そうに顔を顰めた。
「……私はもう、二度と御免だけど。あんなにデカいのに、あり得ないくらい素早かったし。本当に心臓に悪かったわ」
「そうだな。……ただ、アイツが異常に素早かったのには理由がある」
「……理由?」
「あぁ。俺が『敏捷強化』の術式をあいつに掛けたからだ」
ナギの歩みが、ピタリと止まった。
俺が振り返ると、彼女は信じられないものを見るような、完全に呆れ果てた視線でこちらを凝視していた。
「……ちょっと、待って。今、なんて言ったの?」
「付与術で、あいつの敏捷を強化した」
「アンタ、悪びれもなくしゃあしゃあと……。通りでおかしいと思ったのよ、初撃以降格段に動きが速くなってたから……」
「敵が強いなら、それを強化してステータスを喰らうのが俺の目的だぞ。当然だ」
俺が事もなげに言うと、ナギは額を押さえ、深々と、心底呆れ果てたような長いため息を吐き出した。
「……アナタって人は、本当に……」
「なんだ」
「どんな絶望的な状況でも、強くなる可能性があるなら、自分の命すら天秤にかけるのね。……本当に、頭がおかしいわ」
そう言って悪態をつくナギ。
だが、その呆れ顔の奥には、どんな状況でも決して止まることのない俺の異常なまでの強欲さに、ある種の諦めと理解が滲んでいた。
「……流石に、今の能力でドラゴンと出くわしても強化はしないぞ?」
「当たり前でしょ、馬鹿!」
ナギは毒づきながら、再び呆れたように小さく息を吐いた。
そんな会話を交わしながら、俺たちはひたすら上り続け……やがて横道の終着点に出る。
「ここからはまた、地獄の寒暖差地帯ね……」
「ああ。とはいえ、日も暮れてきた。中腹まで辿り着いたら今日はそこで野営だ」
「そうして貰えると助かるわ。……流石に体力も限界だったし」
そのまま慎重に壁沿いを進んでいくと、やがて、双極の断層の中腹――見慣れた岩場へと戻ってくる。
そこで改めて感じる、純粋な空気の冷たさ。行き掛けに氷漬けにした周囲は、今も凍えるような寒さに包まれたままだ。
名を与えられ、力を解放した『凍喰』が発した尋常ではないマナが、未だに中腹一帯の温度を……否、空間ごと凍り付かせているからだ。
「……或いは、この辺りはずっとこのままかもしれんな」
「えっ? ずっとって……ここは永遠に氷漬けってこと?」
「ああ……凍喰の力の源は『迷子の心臓』だ。ダンジョンを構成する核であり、龍脈を力の根源にしている。特性上、空間には特に強く作用するのかもしれん」
「……改めて、凄まじい剣ね」
「ああ、頼りになる相棒だ」
そう応じた瞬間、腰の鞘に収まった『凍喰』が、まるで俺の言葉を理解して誇っているかのように、トクン、と心地よい魔力の脈動を返してきた。
それを見たナギが、ほんの少しだけ面白くなさそうに、唇を尖らせて剣を睨みつける。
「……なによ。武器のくせに、私より褒められて嬉しそうにしちゃって」
「何をしている? ……野営の準備だ」
「はいはい、分かったわよ」
すっかり日の落ちた極寒の夜闇の中。
俺たちは安全な岩陰を確保し、再びそこに『隔絶の天幕』を張ると、慣れた手付きで野営の準備を始めるのだった。
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