獄零への近道
凍てついた静寂の世界は、永遠には続かなかった。
万年氷の分厚い壁沿いを這うようにして、斜面を下り続けることおよそ一時間。
俺たちの鼓膜を、再び腹の底を揺らすような低い轟音が打ち始めた。
「……足元の氷が、ここで完全に途切れてる」
慎重に岩肌を下っていたナギが、足元を見つめて息を呑んだ。
彼女の言う通り、先ほどまで分厚い銀氷に覆われていた足場は、ある一定のラインを境にぱつりと途切れ、本来の黒褐色を露わにしている。
『凍喰』がもたらした絶対零度の支配域を、完全に抜けたのだ。
同時に、眼下の谷底から吹き上げてくる凄まじい熱波と風圧が、容赦なく俺たちの体を煽り始める。
「中腹の『境界域』は越えた。だが、ここから下はさらに荒れるぞ」
俺は立ち止まり、改めて周囲を見渡した。
対岸のマグマ脈は赤黒い光を増し、煮えたぎる熱波を上空へと叩きつけている。
それに対抗するかのように、俺たちのすぐ横にそびえる万年氷の壁もまた、滝のような極寒の冷風を谷底へ向けて雪崩れ込ませていた。
凄まじい熱膨張と極寒の収縮。相反する巨大なエネルギーが直接激突する事で、下層の空間は、常に全方位からの暴風が吹き荒れる天然のミキサーと化している。
「嘘、でしょ……。中腹よりずっと風圧が強い……」
ナギが岩肌にへばりつきながら、青ざめた顔で杖を握り直す。
「……魔法で、風の盾を……」
「無理だ。そんな緻密な操作、この暴風の中では数分と保たない」
俺はナギの肩を軽く叩いて制止した。
「で、でも、降りるにはそうするしか……」
「……いや、崖をそのまま這い下りる必要がなくなった」
俺は歩みを止め、すぐ真横にそびえ立つ分厚い『万年氷の壁』へと視線を向けた。
「お前は足場の悪さに気を取られて下ばかり見ていたが……この氷の壁の中には、先ほどからずっと不自然な空洞がいくつも空いている」
「え……? 本当だわ……でも、なんでこんなところに?」
「……離れていろ」
ナギが呆然と声を漏らす中、俺はマジックバッグからドルンに作らせた黒鉄兵のハンマーを引き抜き、壁の表面を覆う薄い氷の一点に向けて思い切り叩き込んだ。
ガァンッ!
硬質な破砕音と共に表面の氷が砕け散り、大人二人が並んで歩いてもまだ余裕のある、巨大な空洞がポッカリと口を開けた。
斜め下へと向かって緩やかにカーブしており、中を覗き込むと、あの狂ったような乱気流の音が嘘のように遠ざかる。
「……俺の読みが正しければ、外の暴風を避けながら最下層付近まで降りられるはずだ」
「……それが本当なら嬉しいけど、なんでそんな事が分かるのよ」
「……」
安堵と疑問の入り混じった息を吐きながらも、ナギが氷の空洞へと足を踏み入れる。
だが、そんな彼女も、その空洞の中身を見たことで、ある可能性に思い至ったようだ。
「ねえ、ご主人様。この穴、なんか、掘削したみたいじゃない……?」
「……ああ。しかも、比較的新しい」
俺は壁面に触れ、その感触を確かめる。
何かの巨大な力で、強引に万年氷ごと抉り取られたような痕跡。それも、ただ壊したのではなく、氷そのものを『喰らい尽くした』かのような異様さがあった。
「……最深部に巣食う『蠍』は、周囲の鉱石や岩盤を取り込んで外殻を形成すると、情報にはあったな」
「っ……じゃあ、ここは……」
「巨大な顎か鋏で、岩盤や万年氷を削り喰らいながら進んだ、奴の通り道だろうな」
俺の呟きに、空洞の中に重く、冷たい沈黙が落ちた。
暴風を避けられる安全な道は、同時に、規格外の化け物が這い回るための『血管』でもある。いつ前から、あるいは後ろから、この穴を創り出した主がやってくるか分からない。
「……息を潜めろ。なるべく音は立てるなよ」
「わ、分かってる……」
ナギは杖を胸に抱き寄せるようにして、小さく頷いた。
外の乱気流の咆哮が壁越しに鈍く響く中、俺たちは暗く奇妙な氷の空洞を、ただひたすらに下っていく。
それから、どれほどの時間を下り続けただろうか。
前方の視界が、赤黒い不吉な光と、青白い冷たい光を帯びて開け始めた。
「……着いたな」
「ほっ……。正直、生きた心地がしなかったわ」
空洞の出口から身を潜めるようにして外へ出た俺たちは、双極の断層、その『最下層』の景色を目の当たりにする。
そこは、赤黒く煮えたぎるマグマの川と、決して溶けることのない巨大な万年氷の塊とが、足元を埋め尽くすように混在していた。
尋常ではない質量のマナがせめぎ合っていなければ、物理的にあり得るはずがない、この世のものとは思えない異常な光景だ。
だが、俺の視線は環境の過酷さではなく、底面の岩肌そのものに向けられていた。
「……おかしいわね。ドルンの話じゃ、この最下層の岩盤に目的の鉱石が露出してるはずなのに」
周囲を見渡したナギが、訝しげに呟く。
彼女の言う通りだ。俺たちが求めていた極低温の魔力を宿す鉱石――『獄零鋼』の姿は、どこにも見当たらない。
代わりに目につくのは、不自然に抉られ、乱雑に砕かれた無数のクレーターだけだ。
その光景と、先ほど通ってきた空洞の異様さが、俺の中で一つの答えへと結びつく。
「……なるほど。そういうことか」
俺が静かに息を吐き出した、その時だった。
カチ、カチチ、チチチチチ……!
暴風の音に混じり、硬質なものが岩を打つような乾いた音が、四方から響き始めた。
前方からではない。岩陰から、頭上の氷壁から、マグマの川岸から。
一体や二体ではない。数十、あるいはそれ以上の数の気配が、明確な殺意を持って俺たちを包囲しつつあった。
「っ……囲まれてる!? 蠍の群れ……!」
ナギが杖を構え、背中合わせになるように俺の背に付く。
暗がりから姿を現したのは、一匹一匹が狼ほどもある巨大な蠍たちだった。その外殻は鈍い黒銀の光沢を放ち、吹き荒れる熱波も極寒の冷気も、一切寄せ付けることなく完全に弾き返している。
「どうやら、獄零鋼は奴らの『産卵期』の餌になったようだな」
「産卵期の、餌……?」
「ああ。あの空洞も、これから生まれてくる子蠍のために、親が万年氷ごと鉱石を喰い破って作った通り道だろう。そして、ここにあるはずの獄零鋼は、あらかた奴らの腹の中というわけだ」
俺の言葉に、ナギの顔色が一気に青ざめた。
「そ、そんな……! じゃあ、あんな危険な思いをしてここまで降りてきたのに、全部無駄足だったってこと!?」
「無駄足だと嘆くのは、早計だな」
悲痛な声を上げるナギを他所に、俺は腰の『凍喰』の柄に手をかけた。
「周囲の鉱石を喰らい、己の装甲とする魔物。ならば、純度の高い獄零鋼を喰って生まれたコイツらの外殻は、もはや獄零鋼そのものと同質だろう」
「え……?」
「それに、これだけの数の群れを産み落とすため、大量の獄零鋼を喰らい尽くした『母親』がいるはずだ。……体内で極限まで圧縮されたまま、図らずも一つに固まった極上の塊がな」
カチカチと威嚇音を鳴らしながら距離を詰めてくる蠍の群。
「つまり、そいつを倒せば……極上の鉱石が手に入る?」
「ああ……石遊びをする手間が省けた」
まずは目の前の有象無象を片付け、元凶を引きずり出す。
俺は静かに魔剣を抜き放ち、その冷たく澄んだ刃を、ひたひたと距離を詰めてくる無数の群れへと真っ直ぐに向けた。
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