白銀の境界線
白く明滅した視界が、ゆっくりと晴れていく。
鼓膜を揺らしていた猛烈な風の咆哮も、肌を焦がすような熱波も、全てが嘘のように消え去っていた。
そこにあるのは、圧倒的なまでの静寂。
熱と冷気が絶え間なく激突していたはずの『境界域』の中腹は、一面が銀氷に塗り潰されていた。
荒れ狂う乱気流すらも空中で凍りついたかのような、有無を言わさぬ絶対零度の蹂躙。
四方八方から迫っていた数十体の『双極粘体』もまた、例外ではない。
奴らは逃げ出す事も、属性を反転させる事すらも叶わず、そのおぞましいマーブル模様の流体を維持したまま、完全に沈黙する氷像と化していた。
「……嘘、でしょ……?」
背後で、ナギが震える声で呟く。
無理もない。俺自身、己の手にある『相棒』がこれほどの力を秘めているとは、予想だにしていなかった。
『名付け』によって解放されたこの力は、文字通り規格外だ。
……ドクン。
満足したかのように、柄から小さな脈動が伝わってくる。
俺は小さく息を吐き、静かに『凍喰』を鞘へと納めた。
「……固まっている場合ではないぞ」
「えっ……? あ、うん。……分かってるけど、流石にこれは……スライムも、属性も何も関係無く氷像になってるし……」
ショックの抜けきらないナギを横目に、俺は思考を切り替え、凍りついた岩場を見渡す。
「……空間ごと凍りついたのは好都合だな。マグマの熱波も乱気流も消えている。これなら対策のしようがある」
「対策って……まさか」
「ああ。ここで少し休憩する」
俺はマジックバッグから、球体状の魔道具を取り出した。
かつてグラシュティア山脈を越えた際にも使用した、冷気を完全に遮断する『隔絶の天幕』だ。
凍りついた平らな岩場を選び、魔石を一つ嵌め込んで氷の上に置くと、途端に魔道具は自律的に作動し、天幕が一気に展開された。
相変わらず、あの偏屈な――ゼフが最高傑作と豪語するだけの事はある性能だ。
コアを動かす魔石のエネルギーを排熱として利用しているため、内部は入った瞬間から仄かに暖かい。
「……はぁぁ……生き返る……」
重い体を引きずり天幕に転がり込んだナギが、深い安堵の吐息を漏らす。そのまま体を横にして休めようとする彼女を制止し、俺はマジックバッグに手を入れた。
「休む前に、まずは腹に入れろ」
そう言って取り出したのは、湯気を立てる温かい肉と野菜の煮込み料理、そしてふかふかのパンだ。
収納した時点の状態を完全に保存するマジックバッグの恩恵により、まるでつい先ほど火から下ろしたばかりのような、出来立ての熱と匂いが天幕内に広がる。
「……こういう時、本当にマジックバッグ様々ね……」
ナギは震える手で器を受け取り、ゆっくりと口に運ぶ。
過酷な寒暖差で限界まで削り取られていた彼女の体力とマナが、温かく栄養のある食事によって、内側からじんわりと満たされ、回復していくのが分かった。
無言のまま平らげ、温かい茶で息をつく頃には、ナギの顔色もすっかり生気を取り戻していた。
だが、同時に極度の緊張と疲労から解放された反動が来たのだろう。うとうとと、そのまぶたが重げに落ちていく。
「……ご主人様、私、少しだけ横になるわね……」
「ああ。無理をするな。俺は少し、外で作業がある」
毛布にくるまり、すぐに規則正しい寝息を立て始めたナギを一瞥し、俺は静かに立ち上がった。
眠る彼女の邪魔にならないよう天幕を出る。
外は、先程までの狂乱が嘘のような、絶対零度の静寂に包まれている。
「風の音が遠い。……どれほど広範囲を凍りつかせたんだ、お前は」
そう言いながら、俺が腰元の『相棒』に視線を送る。
剣が言葉を発したわけではない。だが、柄から伝わる微かな震えから、『俺の力はこんなものじゃない』と、不遜に笑う声が直接流れ込んでくるような気がした。
「……ふ、頼もしい限りだな」
俺は口元に微かな笑みを浮かべ、鞘を軽く叩く。
名付けによって生じた奇妙な繋がりを感じつつも、俺は思考を切り替え、改めて周囲の探索へと意識を向けた。
まずはナギが深い眠りにつけるよう、そして不測の事態が起きないよう、俺は周囲の安全確保も兼ねて氷変した『境界域』の探索へと歩を進める。
凍りついた岩肌を踏みしめながら、感覚を研ぎ澄ます。
極端な温度低下によって地盤が脆くなっていないか。息を潜めて生き残っている魔物がいないか。
周囲を一回りして確認したが、どうやらこの一帯は完全に『凍喰』の冷気に支配され、安定しているようだった。
「そろそろ一時間か……」
天幕に戻り、周囲を警戒しながら休憩していた俺は腰を上げ、スライムの成れの果てである、氷像の元へと近づいていく。
極寒のマナを帯びて凍りついたスライムは、ただの氷ではない。鋼よりも硬い、高密度の氷塊だ。だが……。
俺は無造作に右腕を振り上げ、目前の氷像の中心――コアが位置する部分へと、素手で拳を叩き込んだ。
◇ ◇ ◇
ガァァンッ!!
鼓膜を震わせる凄まじい破砕音。
それがすぐ外で鳴っているのだと理解するまでに、ひどく時間がかかった。
深い泥の底に沈んでいたような意識が、ゆっくりと水面へ浮上してくる。
あれほど激しい音が響いているというのに、鉛のように重い身体はすぐには反応してくれず、私は重い目蓋を静かに押し上げた。
「……しまった。完全に寝ちゃってたわね……」
天幕の仄かな暖かさと、ふかふかの毛布に包まれた安心感。どうやら、外の轟音でもすぐには目が覚めないほど、私の身体とマナは極限まで消耗しきっていたらしい。
だが、ゆっくりと身を起こせば、身体の強張りはかなり抜け、内側から確かな活力が戻ってきているのが分かった。
「回復が早くなってる。……レベルが上がったおかげかしら」
私は毛布を抜け出し、天幕の隙間からそっと外を覗き込んだ。
そこには、氷の世界の中心で――私の主が、無造作に右腕を振り上げている姿が映し出されていた。
ガァァンッ!!
見ただけで分かる、氷像に蓄積されているマナの濃さ。鋼よりも硬くなっているであろう分厚い氷の装甲が、彼の拳一つで呆気なく砕け散る。
ご主人様はそのまま氷像の内部へ腕を突っ込み、凍りついたスライムのコアを乱暴に引き抜いた。
「……ちょっと、ご主人様」
私が天幕の隙間から声を掛けると、彼はゆっくりとこちらを振り返った。
「起きたか。騒がしいのは我慢しろ。……依頼だ」
淡々とした声でそう告げる彼に、私は小さく首を振る。
私が眠りに落ちてから、体感で小一時間は経っている。依頼の品を回収するだけなら、こんな氷の世界でわざわざ時間を潰す必要もなく、もっと早く終わらせることも出来たはずだ。
あの打撃音を出せば私が起きてしまうと分かっていたからこそ、休めるように待っていてくれたのだろう。
「それは良いわよ。……眠れるようにしばらく静かにしてくれてたんでしょう?」
「……周囲の探索をしていただけだ」
そっぽを向くように、言い訳めいた言葉を口にする彼を見て、私は思わず頬を緩める。
相変わらず、分かりにくい人だ。口では冷たい合理主義者を装いながら、その行動にはいつも、私を気遣う不器用な優しさが隠されている。
「そう、じゃあ、そういうことにしておくわ。……ありがとう」
私が微苦笑を浮かべながら素直に礼を言うと、ご主人様は何も言わず、手元の氷塊へと向き直った。
そうして、再び右腕が振るわれる。
それを見た私に、先程とはまた違う感情が湧き上がり、呆れを通り越したため息が口から漏れ出す。
「それはそうと、素手ってどうなのよ……?」
いくら彼の力が規格外になっているとはいえ、マナで硬化した氷壁を、道具も使わずに素手で叩き割るなど常軌を逸している。
「コアまで砕かないように加減が必要だからな。これが一番効率が良い」
平然と言い放つ彼に、私は天幕の中からジト目を向けた。
「効率がどうこうじゃなくて、マナが通ってガチガチに凍りついた氷像を、素手でぶち抜いてることにツッコんでるんだけど……」
私が毛布を頭から被り直しながらぼやいても、彼は特に気にした様子もなく、淡々と次の氷像へと歩を進めていく。
「本格的に、人間離れしてきたわね……」
その広く頼もしい背中を見つめながら、私は呆れと安心が混ざったような、深い息を吐き出した。
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