『名前』
ガルディアの街を出て、真っ直ぐ南東へ向かうこと丸二日。
道無き荒野と険しい岩肌を越え、過酷な道程を踏破した俺たちの前に、その『異常な空間』は唐突に口を開けた。
「……これが、『双極の断層』」
谷底を見下ろしたナギが、強風に髪を煽られながら息を呑む。
それは山脈を切り裂くように走る、巨大な亀裂のような谷だった。
片側の絶壁は、雪山の冷気を孕んだ極寒のマナが凝縮し、分厚い『万年氷』となって壁面を完全に覆い尽くしている。
だが、その真向かいに位置する底面と対岸の岩壁は、煮えたぎる赤黒い『マグマ脈』が剥き出しになっていた。
灼熱と極寒。決して交わるはずのない相反する二つの理が激突する空間は、凄まじい温度差によって恒常的な乱気流を生み出し、底から上へと吹き上げる猛烈な風の咆哮を絶え間なく響かせている。
「ただ見下ろしているだけでも、感覚が狂いそうね……」
「……だが、行くしかない。風圧と足場に気をつけろ」
俺は短く注意を促し、断層の壁面に沿って続く、辛うじて人が一人通れる程度の細く険しい岩道へと足を踏み出した。
草一本生えない、文字通りの地獄への入り口。
強烈な上昇気流に煽られながら、崩れやすい斜面を慎重に下っていく。
「グラシュティア山脈とも、全然違うわね……暑いのに寒い、寒いのに暑い……」
「ああ、刻一刻と変わるこの寒暖差は、雪山よりも遥かに厄介だ……」
そんな事を話しながら更に高度を下げていくと、環境の異常さがより明確に牙を剥き始める。
対岸のマグマ脈から容赦なく叩きつけられる熱波と、背後の氷壁から吹き付ける極寒の冷風。それらはただ不規則に入り混じるだけではない。
凍えるような冷風が刃となって肌を裂いたかと思えば、次の瞬間には、全てを焦がす熱波が負けじと総毛立つほどの暴力で襲いかかってくる。
極寒と灼熱が、互いに主導権を奪い合うように強弱をつけて絶え間なく牙を剥くのだ。
「……これほど、とはな」
息を吸い込めば肺が直接焼かれるような激痛に襲われ、吐き出せば全身の血が凍りつくような悪寒が走る。相反する二つの異常が一拍ごとに反復し、内側からも外側からも容赦なく肉体を削り取っていく。
「……は、っ……く、ぅ……」
俺の後ろを進むナギの呼吸が、目に見えて浅く、荒くなっていく。
ナギは震える手で昨日買い込んだ『冷却石』を起動し、殺人的な熱波を中和しようと試みている。
だが、この環境下においてその行動は、諸刃の剣だ。
不規則に襲い来る極寒の突風が吹き付けた瞬間、ナギの手に握られた冷却石の冷気と相まって、その細い身体を一気に凍死の危機へと追いやる。
その命を繋ぎ止めているのは、彼女の指にはめられた『炎脈の指輪』だが……その代償として、異常な温度の乱高下が起こるたびに指輪は限界を超えて働き、彼女のマナを容赦なく吸い上げていた。
冷却石で熱を凌ぎ、冷風が吹けば指輪がマナを喰って凍結を防ぐ。
終わりのないその悪循環が、彼女の体力と魔力を絶え間なく、そして確実に削り取っていく。
――消耗は、俺の予想を超えて早かった。
確実に限界を迎えつつあるナギは、岩壁に指を血が滲むほど強くへばりつかせ、ただ下るという行為だけに全神経をすり減らしている。視界が歪んでいるのか、その足取りは目に見えて怪しく、小刻みに震えていた。
――ゴォォォォォォッ!!
「……っ!?」
不意に、真下から吹き上げた異常な突風に煽られ、ナギの足元の岩縁が脆く崩れ落ちた。
体力を奪われ尽くし、限界に近い足に、踏ん張るだけの力は残っていなかった。
「あ……」
抗う間もなく宙に投げ出され、彼女の身体が底知れぬ谷底へと真っ逆さまに落ちかける。
――だが、その身体が完全に落下軌道に入るより早く、俺は伸ばした右手で彼女の細い腕をガッチリと掴み留めていた。
「ふっ……!」
俺は己の腕力に物を言わせて彼女の身体を強引に引き上げ、比較的安定していそうな岩棚へと下ろす。
岩肌に背を預け、胸を激しく上下させながら、声も出せずにナギが喘ぐ。
「……休め。呼吸を整えろ」
俺は短く告げ、暫し彼女の回復を待つ。
「……っ、ごめ……なさい……」
「喋る必要は無い。……飲め」
俺はマジックバッグから水筒を取り出してナギに手渡し、自身も別の水筒を煽って乾ききった喉を潤した。
「俺も常にお前を見ていられる訳では無い。体力が限界なら、早めに合図しろ。……足場のある場所でなら、多少マシな環境が作れる」
そう言いながら、俺は腰から『氷の魔剣』を引き抜き、岩棚を覆うように極寒のマナを放った。
瞬時に分厚い氷の壁が形成され、俺たちを包み込む即席の『かまくら』が出来上がる。
マグマからの熱波を一時的に遮断し、乱気流による風を防ぐことで、過剰な冷気もある程度は抑え込まれた。
氷壁の中で強張っていた肩の力を抜き、ようやく深呼吸を繰り返したナギが、ぽつりとこぼす。
「……ありがとう、ご主人様」
「礼は要らん。……ここは長く留まれる場所じゃない。動けるようになったら言え」
俺は短く返し、周囲の乱気流の周期を読み取る作業へと思考を戻した。
そうして神経と体力をすり減らす事、数時間。
ようやく氷と炎の力が最も拮抗する谷の中腹――『境界域』と呼ばれる地帯の、やや開けた岩場へと辿り着いた時だった。
ナギは杖を支えにしなければ立っていられないほど膝を震わせ、肩で荒い息を繰り返している。
だが、地獄の環境は、彼女に息を整える猶予すら与えなかった。
岩陰から、赤と青の色彩を不気味にマーブル状に蠢かせる、巨大な半透明の粘液の塊が一体、姿を現した。
「こっちは疲れてるって言うのに……。あれが、『双極粘体』ね」
ナギは引き攣る呼吸を気力で押し殺し、重い腕を無理やり持ち上げるようにして杖を構えた。
「炎と氷の魔法は効かず、物理攻撃も無効化する……なら、内側から焼き切るまでよ!」
ナギの杖の先端から、眩い雷撃が放たれる。
「――『紫電』!」
一直線に放たれた雷の槍が粘体を貫き、内部の核を正確に焼き焦がした。
パァンッ、と小気味良い音を立ててスライムが弾け飛び、霧散する。
「ふふっ、なんだ……。話と違って、楽勝、ね……。これなら、何匹出てきても……」
強がって見せるものの、声はかすれ、杖を握る指先が白く強張っている。
だが――直後、周囲の岩肌や絶壁の亀裂から、ズルリ、ズルリと、先程と同じマーブル状の粘体が、十や二十ではきかない数で次々と這い出してきた。
「……えっ。ちょっと、嘘、でしょ……?」
完全に周囲を包囲され、四方八方からジリジリと距離を詰められる。
俺は限界に近い足で後ずさる彼女の状態を一瞥し、声をかける。
「……何匹でも楽勝なのだろう。やっていいぞ」
「……もう、私が、悪かったわよっ! 意地悪しないで、助けてよ!」
何故か俺を睨みつけながら怒りをぶつけてくるナギに小さくため息をつくと、俺は腰から『氷の魔剣』を引き抜き、迫り来る粘体の群れへと踏み込んだ。
「まずは、構造を確かめる」
先頭の一体へ向け、魔剣を一閃する。
だが、刃が粘体の表面に深く食い込んだ瞬間――強烈な違和感が腕に伝わった。
斬れない。
否、刃が『絡め取られた』。
「……なるほどな」
氷の魔剣が放つ絶対的な冷気に呼応するように、粘体内部のマーブル模様が急激に変化していた。
青い冷気のマナが後方へ退き、赤黒いマグマのような熱量が、魔剣との接触面へと一極集中しているのだ。
猛烈な熱波と、絶対零度の衝突。
凄まじい蒸気が吹き上がり、接触面の粘液は超高密度のゴムのような状態へと変質し、魔剣の刃を完全に挟み込んでいた。
力任せに引き抜こうにも、急激な熱膨張と流体変化によって威力が分散され、びくともしない。
「ご主人様!?」
「問題ない」
俺はスライムごと魔剣を頭上に掲げ、素振りの形で剣を勢いよく振り切る。すると、剣速に負けたスライムが、ズルリと刀身から引き剥がされた。
「性質の変化……か。属性そのものを『吸収』しているなら厄介だと思っていたが、どうやら違うようだな」
「えっ……?」
「炎や氷の魔法が無効化される理由が分かった。奴らは攻撃を受けた瞬間、内部で熱と冷気を瞬時に偏らせて、接触した属性を完全に相殺しているんだ」
「じゃあ、やっぱり通じないじゃない!」
「いや、完全な防御など存在しない。奴らがやっているのは、あくまで自分に負荷が掛からない範囲で、炎や氷を処理しているに過ぎない」
俺は先程、魔剣で斬りつけた粘体を指差す。
「見ろ」
前面に全熱量を集中させた代償として、その粘体の『前方』はゴムのように固まり、『後方』は極寒のマナのみ取り残され、氷塊へと変貌していた。
「奴らが物理攻撃を無効化できるのは、熱と冷気のバランスを保ち、粘液の『流体』を維持しているからだ。だが、処理の限界を超える極端な属性攻撃を防ぐためにバランスを大きく崩せば、身体の反対側は一属性のみになる。つまり……」
「……あ! 流体じゃないなら、物理攻撃が通る!」
「そういう事だ。……ナギ、俺の傍から決して離れるな」
「ご主人様……?」
俺は両手で『氷の魔剣』の柄を握り締め、目を閉じる。
……ドクン。
その手に伝わる、微かな脈動。
思えば、あの――『嘆きの氷谷』を抜ける為、螺旋の階段を生み出した時も――この剣は己を主張していた。
ただの魔力の余波だとばかり思っていたそれに、明確な『意志』があるのだと教えられたのは、出発前の鍛冶場でドルンに声を掛けられた時だ。
◇ ◇ ◇
鞘を作るためのイメージ作りだったのだろう。ドルンが旅立つ間際の俺に、声を掛けてきた。
『おい……そういや、その魔剣の名前は何だ?』
『……名など無い』
『おいおい、そいつは、本当か?』
『……名前が無いと、何かあるのか?』
『生まれたての、ダンジョン由来の魔具ってのは、『名』を求めるもんだ。武器にしろ防具にしろな。……名を与える事で、初めて持ち主を真の主として認め、力を貸し与える』
『……だが、既に十分な力を見せているぞ』
『そう、そこだよ。……名も与えていないのに、それほどのマナと冷気。そいつがどれほど規格外の存在かって話だ』
『つまり、こいつに『名』を与えれば……』
『ああ。ソイツはお前に、真の力を見せてくれるはずだ』
◇ ◇ ◇
ゆっくりと瞼を開くと、数十の粘体が、こちらへ蠢き迫っているのが目に入る。
だが、俺は剣にのみ意識を集中し、柄を握り直す。
先ほどよりも、強く、速く、ドクン、ドクンと、焦燥するように脈打つのを感じる。
(……気付いてやれなくて、すまなかった)
己が存在を主張する氷零の魔剣。……その真の相棒となる為、俺は事実としての名を与え、言祝ぐ。
「受け取れ――『凍喰』」
刹那。
世界が。白く明滅した。
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