氷の底
凄まじい冷気が渦巻くクレバスの底。
私はカインの意思を実行に移すため、託されたマジックバッグを開いた。……決して私には触れさせなかった、彼にとって大切な、思い出の品だと言っていた代物だ。
「……って、これ、どうやって使えっていうのよ!」
魔道具の最も厄介な所は、適切な運用をしなければ、うんともすんとも反応しないところだ。
当然、私はマジックバッグの使い方など全くわからない。……とはいえ、本来の持ち主は意識を――否、命すら手放す寸前であり、確認する術も存在しない。
(……思い出しなさい。……カインはいつもどうやって使っていた……?)
必死に、今までのカインの所作を思い返す。使用の際、魔力を使っている様子は無かった。……特別な呪文を、口にしている様子も無かった。
「ってことは……」
可能性に思い至った私は、必要なものをしっかりと意識しながら、鞄の中を弄る。
――すると、ツルツルとした球体が、自らの手に触れたのを感じる。ハッとしながら引き出すと、そこにあったのは、両の掌に収まるほどの球体状の魔道具だ。
「『隔絶の天幕』……! やったっ……!」
急いで起動用の魔石も取り出し、震える手で魔石を球体の窪みへと強引に嵌め込み、氷の上へと置いた。
途端に、魔道具は自律的に作動を始める。
球体から蜘蛛のような金属製の足が何本も顔を覗かせると、ガチン、と鋭い音を立ててクレバスの分厚い氷盤を強固に噛み込んで固定された。そうして骨組みが完成した次の瞬間、結界の効果を持った天幕が一気に頭上で展開される。
「……はぁっ……」
結界の内側に入った瞬間、谷底の暴力的なまでの冷気が完全に遮断された。魔石による排熱エネルギーも、この極寒の氷底で、内部に仄かな暖かみを与えてくれている。
私はカインの重い身体をどうにか天幕の奥へと引きずり込む。
その途端、張り詰めていた神経が途切れそうになるのを必死に堪えながら、彼の治療に取り掛かった。
「まずは……傷口ね」
そう言葉にしながらマジックバッグを再び弄り、マナポーションと大量のタオルを取り出す。
連続での服用に一瞬躊躇うが、意を決して中身を飲み込んだ。
「……ッ、ぐぅ……!」
直後、急激なマナの充填による『マナ酔い』で視界が激しく揺れる。だが、私は血が滲むほど唇を噛み締め、こみ上げる強烈な吐き気をなんとか耐え抜いた。
次いで彼の服を切り裂き、傷口を水の魔法で優しく洗い流しながら清拭する。
そうしてズタズタになった両腕に、応急用に持たされていた薬効性の軟膏を塗りたくり、あり得ない方向に曲がった脚の骨を、強引に元の位置へと押し戻して、カインの腰にぶら下がる剣の鞘を、添え木代わりにして固定した。
「……痛いって、文句の一つでも言いなさいよ」
荒い呼吸を繰り返すだけで、彼はピクリとも動かない。
すべての処置を終え、毛布を二重に掛けた後、私はようやく彼の隣に倒れ込んだ。
血に塗れ、血色も悪い、ひどい顔。
理屈っぽくて、打算的で、私の命すら生存戦略の駒として扱う最低のご主人様。
……けれど、あの絶望的な状況で私の背後から飛んだ彼の姿は、今まで見たどんな冒険者よりも――。
「……馬鹿なこと、考えてる暇があったら……やれることをやりなさいよ……!」
そう自分を叱咤し、気休め程度の回復魔法を掛け続ける。
――じきに、無理やり補充した魔力すらも完全に底を突いた。
「……ここまでやらせて起きなかったら、一生恨んでやるんだから……」
そう言い残した私は、静寂に包まれた天幕の中で、彼に寄り添うように、深く重い眠りへと落ちていった。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼
――ズキリ、と。
全身の骨と筋肉が軋むような鈍痛で、闇に沈んだ意識が不意に浮上する。
静寂に包まれた周囲の様子と、隣から聞こえる微かな寝息。
(……危機は脱した、か)
そう判断した俺は現状を把握しようと、その双眸に意識を傾けるが……瞼を開けられない。まるで、神経と身体が分断されているようだ。
(怪我の影響か……それとも……)
――氷の巨人の命を絶ったあの瞬間、繋がったままだった付与術式を介して、奴の力がドロドロに濃縮された巨大なマナとなって体内に流れ込んで来た。
今まで経験したものとは比較にもならない程の、圧倒的な力の奔流。その形容し難い力の『塊』が、この身に根付いたのを、薄れゆく意識の中でもハッキリと感じていた。
だが、心身共に衰弱した状態で巨大な力を吸収した代償か、俺の中のマナ回路がズキズキと限界を叫び続けているのを感じる。……恐らくコレが、瞼すら鉛のように重くしている最大の要因だろう。
それでも、全ての意識を集中し、ゆっくりと……その重い瞼を押し上げる。
真っ先に視界に入ってきたのは、見慣れた天幕の天井。その中心で、魔道具のコアが、ぼんやりと輝いているのが見える。
――生き延びたか。
俺は乾いた喉から浅く息を吐き出し、軋む身体を強引に動かして、ゆっくりと上体を起こした。
それから、意識を集中して自身のマナの流動に向け、静かに『ステータス』を弾き出した。
【カイン:レベル41】
【筋力 :370】
【耐久 :145】
【敏捷 :151】
【技量 :188】
【魔力 :218】
【精神 :172】
……当初の目論見通り巨人の能力を吸収した俺は、とても中堅冒険者には持ちえない筋力を手にしていた。――だがそれは、大きな爆弾を抱えたのと同義でもある。
「この方法の、最大の欠点だな……」
そう、以前にも感じたジレンマ。何処か一つが強くなりすぎると、他の能力が付いてこれず歪を起こすのだ。……今のままでは、例え全快したとしても、全力で力を振るう事は叶わない。
そんな真似をすれば、俺の身体はその力に耐えきれず、自壊するだろう。
……だが、それでも。
今後、格上の相手と戦う場面で、この『筋力』は、十分すぎるほどの切り札になるはずだ。
意識の中のステータスをかき消し、俺はそっと隣へ視線を向ける。
そこには、毛布にくるまり、丸くなって眠るナギの姿があった。
顔には俺のものだと思われる血がこびりつき、呼吸も浅い。
俺は声を掛ける事はせず、そっと、ナギの頬に手を伸ばす。温かい。そのぬくもりが、確かな彼女の生を伝えてくる。
彼女の無事を確かめた俺は視線を外し、改めて自身の全身に目を向ける。脚には不格好だが添え木代わりの鞘が当てられ、ズタズタだった両腕には丁寧に包帯が巻かれていた。
生きることに消極的だったはずのナギが、自らの意思で巨人に立ち向かい、無言の指示を完遂してみせたのだ。
「……よくやった」
俺は誰に聞かせるでもなく、先程と同じ言葉を、そっと呟く。
それから、傍らに置かれていたマジックバッグを探り、自らの備蓄である『中級ポーション』を一本取り出した。
全身の奥底に燻る、ポーション使用後特有の微かな熱。
俺が意識を失っている間、ナギがすでに一本、どうにかして胃の腑に流し込んでくれたのだろう。あの致命傷から命が繋がったのは、間違いなくその最初の薬効のおかげだ。
――ポーションの連続使用は、肉体に強制的な細胞再生を強いるため負担が大きい。だが……二本までならなんとか耐え切れるだろう。
俺は親指でコルクを弾き飛ばし、中身を一息に煽る。
強烈な薬効が喉を刺激しながら落ちていき、ズタズタの腕や砕けた脚の骨へとさらに深く染み渡っていくのを感じた。
痛みが和らいでいく感覚を噛み締めながら、俺は魔物避けの『氷鳴の魔石』を取り出し、一度だけ打ち鳴らす。
チリィン、と高く澄んだ音が天幕の中に響き渡るのを聞き届け、そこでようやく、ふっと一息ついた。
再び休息をとるため、軋む身体を横たえようとした――その瞬間。
不意に、隣で小さく丸まり、毛布をはだけさせるナギの姿へと、吸い寄せられるように再び視線が向いた。
俺は辛うじて動かせる右腕を僅かに伸ばし、ナギからずり落ちていた毛布の端を、そっと彼女の肩口まで引き上げる。
それを最後に、今度こそ静かに、俺は深い眠りへと意識を手放すのだった。
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