生き足掻く者
祝30話。
序盤のピークが切りよい所で来たのは偶然ながら良かったです。
風の音すら届かない。ポッカリと口を開けたクレバスの底からは、ただ、ぞっとするような静寂と死の気配だけが這い上がってきていた。
氷の巨人と共に、カインは闇に消えた。
崖の縁で崩れ落ちた私は、杖を杖とも思わず握りしめ、裂け目のような暗黒の底を覗き込んだ。
「……カイン!」
返事はない。死んだのか。あんな、無茶苦茶な男が。
『飼い主』が死んだのであれば、奴隷は自由の身の筈だ。
カインが死ねば、隷属の契約は消滅する。このままこの場を立ち去ればいい。だが……。
「……そうよ。私には食料や天幕の入ったマジックバッグもない。こんな極寒の雪山で、一人で生き延びて麓まで降りられるはずがないわ」
嘘だ。最低限の食料とマナポーションは有る。指輪さえ機能していれば、リスクはあるが、絶対に降りられないという訳では無い。
「だから、カインの死体から荷物を剥ぎ取るために降りるだけ。……それだけよ」
声に出して、心の中で必死に言い訳を並べ立てる。奴隷として冷徹に割り切れていたはずの思考が、今はひどい焦燥感で真っ白に塗り潰されていく。
気が付けば、私は震える手でポーチをまさぐり、マナポーションを取り出し、一息で飲み干していた。
底をつきかけていた魔力を強引に引き上げる。指輪の効果で指先の冷えが少しだけ和らぐのを感じながら、私は崖の構造を観察した。
どこを足場にし、どの岩を支点にするか。焦燥感で心臓が早鐘を打つが、思考だけは強制的に冷静さを保たせる。ここで足を踏み外せば、私もカインと同じ末路だ。
凍りついた岩肌に指を食い込ませ、ゆっくりと、慎重に体重を預ける。はやる気持ちを必死に押さえ込み、ひたすらに確実な手順だけを繰り返して、私は気の遠くなるような絶壁を這い降りていった。
どれほどの時間を降りたのだろうか。
ようやく辿り着いた地の底。周囲に視線を這わせる。暗闇だ、視界はかなり悪い。それでも慎重に周囲を探索し……血に塗れて倒れるカインを見つける。
「……ッ!」
カインの両腕はズタズタに引き裂かれ、剣を蹴り込んだ脚はあり得ない方向に捻じ曲がっている。さらに、背中から受けた魔法の衝撃で折れた肋骨が、皮膚を内側から突き上げていた。辛うじて微かな呼吸はしているが、生きているのが不思議な状態で、意識は完全に途絶えていた。
私はポーチからポーションを取り出し、その傷口へとかけ流す。だが、肉体が壊れすぎていて外傷にはほとんど効果がない。
直接、体内に流し込むしかない。
私はポーションを一口含み、彼の冷たい唇に自分の唇を重ねた。
身じろぎ一つしないカインの喉元を、祈るような手つきで優しく擦り上げ、嚥下を促す。
一度では足りない。二度、三度とポーションを含み、溢れないように口移しで流し込んでいく。
ようやく液体の大半が彼の胃へと落ちていくのを感じた。
だが、意識は戻らない。呼吸は浅く、今にも消えそうだ。
「しっかり、しなさいよぉ……!」
祈るように、半ば叱りつけるように呟き、私はふと、周囲に視線を巡らせた。
おかしい。
巨人の死骸は……?
あれほどの巨躯だ。崖の上から一緒に落ちてきたのだから、ここには山のような質量を持った死骸があるはずだ。
だが、視界の範囲にその姿は見当たらない。
――ガリ、と。
凍りついたクレバスの底で、小さな音が響いた。
風の音ではない。もっと重く、もっと巨大な、何かが動く音。
私の視線が、カインの背後の闇へと向く。
氷柱の影、丁度死角になっている場所。
――居る。
死体がないのではない。
そもそも……死んでなどいなかったのだ。
私は反射的にカインを庇うように立ち上がり、背後の暗闇を睨みつけた。
谷底の闇の中から、ゆっくりと……巨大な眼球がこちらを射抜いていた。
闇の中で、巨人の青白い巨体が鈍く光る。
……だが、辛うじて視界に捉えた奴の身体は、死に体に見えた。
落下の衝撃に加え、カインが首筋に与えた傷が深く、その足取りは重く引きずられている。
(……やれるかもしれない!)
私は巨人の首筋――カインの剣が、未だ深々と突き刺さったその場所に狙いを定め、魔力を解き放つ。
「紫電ッ!」
眩い雷光が暗闇を照らし、吸い込まれるように巨人の首筋へ光の矢となって突き刺さる。
バチィィィンッ!!
落雷が剣を避雷針として直撃し、巨人の内部へと直接、強烈な電流を叩き込む。
「ガ、ガァァァァァッ!!」
巨人が苦悶の叫びを上げた。
効果はある。私は間髪入れず、二発目、三発目と紫電を連続で撃ち込んだ。
だが、倒しきれない。
致命傷を負いながらも、巨人はその激痛に激怒し、赤く血走った眼球をこちらへ向け、地響きと共に迫ってくる。
次弾を放とうとして、指先がひどく冷たいことに気づく。マナポーションで回復した魔力も、今の連撃であらかた使い果たしていた。
(空っぽね)
魔力枯渇の悪寒が、全身を襲う。
もう、魔法は撃てない。魔術師である私が魔力を失えば、後はただ嬲り殺されるのを待つだけだ。
「ここまで……か」
やれることはやった。もう、諦めても良い頃合いだろう。非道を繰り返し、死罪を受け入れ、奴隷に身を落とし、こんな場所まで来た。
もう、良いだろう……。
そう思い、目を閉じた瞬間……瞼の裏に浮かんだのは、カインの姿だった。
万策を尽くし、死力を尽くし、今も自分の後ろで、生を渇望して死の淵で抗っている男の姿。
カインの言葉が蘇る。
『お前が勝手に死ぬということは、俺の生存率の低下に直結する』
……ええ、そうね。私がここで死ねば、カインも死ぬ。
「勝手に死なせないんでしょ……この、理屈屋」
私は震える手で杖を握り直し、腰を低く落とした。
魔法を放つための杖ではない。長く硬い棍棒として、それを構える。
巨人の拳が、空気を震わせながら振り下ろされる。
あの日の裏庭の記憶が、脳裏を駆け抜けた。
「……ッ!」
杖の腹に衝撃が走る。
教えられた通り、真正面から受けるのではなく、滑らせるようにして威力を逸らす。
(やった……っ!)
地面が砕け、衝撃で手が痺れる。
でも、出来た。あの巨人の一撃を、受け流してみせた。
(やっぱりコイツも、限界なんだ……! でなければ、私に受け流せるはずがない……)
巨人の攻撃には、先程までカインと打ち合っていた時のような理不尽な威力も、速度もない。落下の衝撃、首に刺さったままの剣、そして先ほどの雷魔法。あの巨躯もまた、間違いなく限界を迎えた瀕死の状態なのだ。
(カインは言っていた……。『お前が数秒生き延びるだけで、俺の生存率は上がる』って。……なら、私が時間を稼いでやるわよ!)
巨人は傷口を庇いながらも、執拗に私を追い詰めてくる。二撃目、三撃目。その度に私の腕は悲鳴を上げ、骨が軋む。
死の淵にあるカインが、立ち上がれないということは、もうこれ以上は無理だということは、分かっている。
それでも、生きるために、生かすために。私は杖を握る手に力を込めた。
四撃目。
「グゥッ!」
辛うじて受け流したものの、身体は大きくバランスを崩し、思わず氷の上に膝を突いた。
五撃目。
回避は……間に合わない。この体勢では、杖で受け流すこともできない。
(カイン……っ!)
私の視界が巨人の巨大な拳で覆い尽くされ、思わず目を瞑る。
――だが。
いつまで経っても、私を押し潰すはずの衝撃は訪れなかった。
「ガ……?」
訝しげに目を開ける。そこにあるのは、怯えた様な、困惑したような、そんな表情を浮かべ、固まった巨人の姿。
「――数秒よりは多く稼いだな。……良くやった」
背後から響いた、掠れた、けれど酷く冷静な声。
振り返る暇すらなかった。
背後から伸びた腕が、流れるような動作で私の手から杖を抜き取っていく。
突風のように、血に塗れた影が私の横を通り抜ける。
カインは無事だった方の足でクレバスの氷を爆発的に蹴り上げ、一息で巨人の眼前に歩を進める。
ハッと我に返った巨人が、迎撃しようと逆の腕を振るう。
だが、遅い。
宙を舞うカインは、ズタズタに引き裂かれた腕で杖を握り込み、その先端を、巨人の虚ろな眼球へと迷いなく突き立てた。
「ゴッ!?」
巨人の苦鳴の声が一瞬だけクレバスの底に響き渡り、そのまま杖が眼窩を貫通し、脳髄まで届く。
巨体は痙攣し、断末魔を上げる間もなくその場に崩れ落ちた。
山のような質量が、雪原を揺らす。
深く突き刺さった杖はカインの手からすっぽりと抜け落ち、カインもまた後ろに倒れ込む。
限界まで張り詰めていた緊張の糸が切れ、私はその場にへたり込んだ。
「……」
「ご主人様……?」
死んだように動かないカインの元へ、私は四つん這いのまま駆け寄り顔を覗き込む。すると、カインは深い息を吐きながらも、しっかりと目を見開いていた。
私はほっと胸を撫で下ろし、震える手で、そっと彼の身体を抱き寄せながら、少しだけ微笑む。
「……ほんと、むちゃくちゃだわアナタ……」
私の言葉に、カインは微かに息を吐き――完全に意識を手放す直前。
震える血まみれの手で、腰から何かを引き抜き、私の胸元へと押し付けた。
「え……?」
ポスリ、と。鈍い音を立てて私の手に収まったのは、彼がいつも携帯しているマジックバッグだった。
それを最後に、今度こそ彼は完全に力を抜き、私の肩に身を預けて静かに眼を閉じた。
安らかな、深い気絶の底へと沈んでいく。
残された私は、手の中のマジックバッグと、眠る彼の顔を交互に見下ろした。
……言葉にしなくても分かる。この極寒の谷底で、朝まで生き延びるための野営の準備をしろ、という無言の指示だ。
死の淵に立ってなお、生き残るための次の一手を奴隷に託す。
「……本当に、私のご主人様はどこまでも合理的だわ」
呆れ果てたような、けれど愛おしさを隠しきれない呟きが、冷たい空気に溶けていく。
私はマジックバッグをそっと握りしめ、自分でも驚くほど自然に――今まで誰にも見せたことのないような、心からの笑みを浮かべていた。
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