生と死の淵
雪煙が晴れた視界の先。
見上げるほどの巨躯が、白魔蛇の残骸を踏み砕きながらゆっくりと立ち上がる。
――『氷の巨人』。
ただそこに存在するだけで、周囲の空間ごと凍りつくような圧倒的なプレッシャー。
俺はズタズタに引き裂かれた両腕の激痛に耐えながら、視界の端で静かに『ステータスチェック』を走らせた。
【氷の巨人:レベル58】
【筋力 :285】
【耐久 :205】
【敏捷 :125】
【技量 :112】
【魔力 :156】
【精神 :105】
(……化け物め)
防具に回すマナは、もう無い。
『焔脈の指輪』の体温維持効果を最低限保持することを考えれば……残されたマナで付与術に回せるのは、どう足掻いても三回が限界だろう。
「……ご主人様。アレ、どうするつもり? 流石に今から逃げるってのは無理そうだけど」
ナギが杖を構えながら、促すような目で俺を見た。
「……逃げる気は、ない」
俺は短く応じ、静かに【敏捷上昇】の術式を自身に叩き込んだ。
防護膜を使えない以上、奴の攻撃は掠っただけで致命傷、直撃すれば即死だ。ならば避けるほかない。
ゴァァァァァァァァッ!!
巨人の、鼓膜が破れそうなほどの凄まじい雄叫び。ここがマナの滞留する特殊な渓谷でなければ、確実に大規模な雪崩を引き起こしていただろう。
直後、巨人がその咆哮と共に踏み込んでくる。
丸太のような豪腕が雪原ごと俺を粉砕すべく振り下ろされたが、強化された敏捷で間一髪、その外側へと駆け抜けた。
「ナギ! 牽制だ!」
「……ッ、炎槍!」
俺が巨人の周囲を高速で立ち回りながら視線を引き付け、ナギの炎で巨人の顔面を掠め、気を散らせる。
一撃死のプレッシャーの中、俺は巨人の攻撃のタイミングをこの身に刻み込む。
だがそれとは逆に、奴にはあえて同じ歩幅、同じタイミングで右へ、左へと回避行動を繰り返し見せつけることで、ブラフのタイミングを覚え込ませる。俺の得意の戦術だ。
(……大枚を叩いて防具を新調したというのに、結局最後はいつもの回避頼みか)
内心で自嘲の息を吐き出しながらも、足運びは決して乱さない。
何度か受けたことでナギの炎を脅威たり得ないと判断した巨人が、俺の動きを更に執拗に追い始める。
横薙ぎにされた丸太のような腕が、俺の鼻先数ミリを通過した。巻き起こった突風が頬の皮膚を薄く切り裂き、血が雪に散る。常人であればすくみ上がるほどの、あまりに近い死の気配。
だが、俺の思考に恐怖が割り込む余地はない。ヒヤリとするほどの死線を幾度も紙一重で躱し、徹底して心は冷静に。延々と回避を繰り返しながら、俺は少しずつ奴を誘い込む。
目指すのは谷の奥――一部が深い断崖になっている場所だ。
(……そろそろか)
俺は断崖を背にし、逃げ場を無くすことで窮地を演出して見せた。
ここまで羽虫のように逃げ惑っていた獲物を遂に追い詰めた喜びか、或いは煩わしさへの怒りか。ともあれ、巨人は勢いに任せて大きくその右腕を振りかぶる。
先程までと全く同じタイミング。
巨人の脳内では、俺が次にどう動くか完全に予測ができているはずだ。
瞬間、俺は視界に収めた巨人の肉体へ向けて、術式を叩き込んだ。
(喰らえ……ッ)
付与したのは、巨人への【筋力上昇】。
次の瞬間、巨人の右腕から、奴自身の想定をも遥かに超えた異常な威力が爆発した。
ズドォォォォォォォンッ!!
過剰に漲った力に肉体が振り回され、掴んだはずのタイミングに身体が合わせられない。
巨人の拳は俺の遥か手前の雪原を抉り、盛大な空振りと共に、その巨体が前のめりに大きく体勢を崩した。同時に爆発的に舞い上がった雪煙が、奴自身の視界を完全に遮る。
(今だッ!)
俺は雪を蹴り、無防備になった巨人の急所――分厚い装甲の継ぎ目である首筋へと跳躍した。
そして、空中に身を躍らせたその瞬間に、最後の一回分の術式を自身へと展開する。
――【筋力上昇】。
同時付与で互いの恩恵が薄まるとしても、これを掛けなければ耐久二〇五の装甲にはかすり傷一つつけられない。俺は強化された腕力で渾身の力を込め、剣を突き刺した。
ガギィィィンッ!!
だが、一歩、足らない。
強化された俺の筋力をもってしても、限界を迎えた両腕では、急所の奥深くまで刃を押し込むことができなかった。
俺は咄嗟に剣から手を離し、巨人が暴れる前に間一髪で後方へと距離を取った。
「はぁっ、はぁっ……」
「っ……もう、マナが……」
俺は息を乱し、傍らに控えるナギも、杖の先から漏れる光が明滅を始めている。
満身創痍。マナ切れ寸前。万事休すだ。
……巨人の首筋には俺の剣が浅く刺さったままだが、致命傷には程遠い。
「……一か八か、だな」
俺は荒い息を吐きながら、ナギへ向けて淡々と告げた。
「俺が合図を出したら、俺の背中に風魔法をぶつけろ」
「な、なんでよっ!?」
「議論してる暇はない。合わせろ!」
「ゴォォォォォォォォォォッ!!」
想定外の反撃に激怒した巨人が、強化された異常な力に身を任せ、出鱈目な猛攻を仕掛けてくる。
敏捷を強化しているとはいえ、複数付与によって効果が薄まった今の速度では、先程までのような回避は不可能だった。
振り下ろされる拳の風圧だけで皮膚が裂け、砕け散る氷の破片が肉を抉る。
俺の全身は、徐々に赤黒い血に染まっていった。
だが、俺は逃げずに巨人の正面に立ち続けた。
いずれ、必ず、好機が来るはずだ……そう自分に言い聞かせて。
「グォォォォォッ!!」
仕留め切れない苛立ちを頂点に達させた巨人が、両手を組んでハンマーのように頭上高く振り上げ、俺を雪原ごと叩き潰そうと全力で振り下ろした。
――ここだ。
俺は全力で後方に跳躍し、その一撃を回避する。
前方で雪原が爆発する音を聞きながら、俺は地面に深くめり込んだ巨人の極太の腕を足場にし、一気に駆け上がる。
「ナギッ!!」
そう合図を送るのと同時、巨人の首元、柄だけを突き出した俺の剣へ向けて、空中へ跳躍する。
「……ッ、突風!!」
ナギの絞り出した最後の魔法が、空中にいる俺の背中へ容赦なく直撃した。
ゴキッ、と肋骨が折れ、内臓がひしゃげるような衝撃と激痛。肺から血の塊が吐き出される。
だが、その暴風の推進力に押され、俺の身体は弾丸のように加速した。
「……ッ、ァァァアアアッ!!」
俺は空中で身体を捻り、首に刺さったままの剣の柄に、足の裏を合わせた。
ナギの魔法の推進力、強化された脚力、そして俺の全体重。
そのすべてを乗せて、全力で蹴り込む。
メキッ、バキィィッ!!
脚の骨が砕ける嫌な音と同時に。
剣が、巨人の首筋の奥深く、急所までガッチリと突き刺さった。
「ゴ、ゴァァァァァァァァッ!?」
致命の一撃を受けた巨人が断末魔の叫びを上げ、後ずさる。
その一歩先は、俺たちが誘導した断崖の縁だ。
巨人はそのまま崖の淵を踏み外し、バランスを崩して崖下への落下を始める。だが……。
(……奴だけを突き落とす算段だったが……そう都合良くは行かない、か……)
そう。渾身の一撃を放った反動で、俺の身体もまた、崖下へ向けて抗いようのない自由落下を始めていた。
全身を支配する致命の激痛も、肺を凍らせる風の音も。
すべてが急速に遠のき、やがて俺の意識は、底知れぬ暗闇へと向かい始める。
「カインーーッ!!」
吹雪すら凪いだ嘆きの氷谷。
遠ざかる崖の上から、ひどく必死な、ナギの絶叫だけが、ただ響いていた。
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