死地の洗礼
嘆きの氷谷。
一歩足を踏み入れた途端、肌を刺す冷気の質が劇的に変わった。
谷の底という閉鎖された地形。行き場を失った異常な密度のマナが極限の冷気と共に淀み、呼吸をするだけで肺の奥から重く圧し潰されていくような錯覚を覚える。
「……最悪ね。さっきの吹雪の方が、まだマシだったんじゃないかしら……」
ナギが震える両腕で身体を抱き込み、忌々しげに周囲を睨む。
上空を吹き荒れる風が氷壁の亀裂を抜け、亡者の嘆きのような音を響かせているが、谷底の空気自体はひどく淀んでいた。
「……無駄口を叩くな。冷気で肺が凍り付くぞ」
俺は短く注意を促し、剣の柄に手をかけたまま先行する。
標的である『氷の巨人』は、この谷のどこかに潜んでいるはずだ。
だが、谷の奥へと足を進めても、巨大な影が姿を現す気配はない。
周囲にあるのは、両脇にそびえ立つ青白い氷壁と、どこまでも続く深い雪の絨毯だけ。生命の息吹など微塵も感じられない、完全な静寂の世界。
歩を進めるたびに軋む雪の音だけが、やけに大きく耳に響いた。
「……ねえ。本当にこんな所に巨人がいるの? 魔物一匹居ないじゃない」
「……油断するな。これほどのマナ溜まりに魔物が居ないということは、根こそぎ食い尽くす主が居るということだ」
魔物はマナの濃い場所を好む。故に、必ず奴は居るはずだ。そのまま警戒を緩めず、さらに数歩、深い雪を踏みしめた。
――その時だった。
音はない。
ただ、足元の雪原が不自然に盛り上がった。
俺は咄嗟にナギの襟首を掴んで真横へ放り投げると同時、胸当ての魔導結晶へマナを流し込み、ミスリルの装甲による不可視の『魔力の防護膜』を展開。そのまま地表へ全力で剣を突き立てる。
ギャギィィィィンッ!!
雪煙が爆発した。
地中から強襲してきた巨大な氷の牙が剣と激突し、手首の骨が軋むほどの衝撃が両腕を襲う。自ら叩きつけた一撃の反動は防護膜では殺しきれず、地面を突き抜けて俺の肩を激しく揺さぶった。
「なっ……何よ、こいつ!?」
雪から這い出した規格外の巨体に、ナギが顔を引きつらせる。
俺の剣と噛み合っているのは、体長十メートルを超える白蛇――『白魔蛇』だ。
グラシュティア山脈の上層に生息し、深い雪中を水中のように移動する捕食者。周囲に魔物が居なかったのはコイツのせいだろう。
「どいつもこいつも雪の中から……芸のない奴らだ」
俺は剣を構え直しながら、静かに『ステータスチェック』を行う。
視界に可視化された相手のマナの流れから、能力値を弾き出す。
【筋力:215】【耐久:185】【敏捷:165】
筋力、耐久、敏捷全てで俺を優に上回っている。上層の過酷な環境が育て上げた、暴力的な数値だ。
「シャァァァァァァッ!!」
俺の言葉に反応するように、初撃を弾かれた魔蛇が威嚇音を上げ、再び雪の波の中へと滑り込む。
「……潜るか」
直後、雪下に潜った魔蛇の尾が、死角から雪を割って鞭のように胴体を薙ぎ払う。
「……ッ」
ドゴォッ!
不可視の防護膜が物理的な威力を殺し、裏地の幻影鹿の皮が衝撃を波紋のように分散させる。身体は数メートル後ろへ弾かれたが、動きに支障はない。
体勢を立て直し、雪中からの連撃を剣と防護膜で弾き落とす。
だが、問題はそこではなかった。
(マナが……食われる!)
尋常ではない質量の一撃を防具で弾くたびに激しく。魔蛇の放つ冷気から『焔脈の指輪』が体温を維持するたびにジワジワと、二つの魔導具が俺の体内からマナを凄まじい速度で吸い上げていく。
深い雪中を這い回り、四方八方から叩きつけられる尾の猛攻。俺の剣撃は硬い鱗に弾かれ、致命傷には至らない。
完全に防戦一方だ。
使用者のマナが枯渇すれば、防具も道具もただの飾りに成り下がる。持久戦になれば、先に限界を迎えるのは確実に俺の方だ。
……出来ればこいつからも吸収したかったが、本命である『氷の巨人』を前にして、これ以上のリスクを冒すわけにはいかない。
(――肉を切らせて、か)
俺は防護膜へのマナ供給を一瞬だけ断つ。
それを隙だと判断した魔蛇が、矮小な獲物を一息に飲み込もうと、巨大な顎を外れんばかりに開いて飛びかかってきた。
(喰い付いた……!)
――ヒュッ。
迫る圧倒的な暗闇と極寒の吐息。
俺は逃げずに踏みとどまり、大蛇の上下の顎の間に、身を縮めながら剣を縦にして渾身の力で突き立てた。
ガギィィィィンッ!!
「ぐぅ……ッ!」
剣ごと俺を噛み砕こうとする魔蛇の尋常ではない咬合力がのしかかり、垂直の角度を維持出来なくなった剣が斜めの方向へ傾き掛ける。それを防ぐため、強引に柄を支えるが……両腕の骨が、メキメキと軋みを上げる。
さらに口腔から直に吹き付ける絶対零度の吐息に対し、『焔脈の指輪』が対抗して限界まで出力を引き上げる。体温の凍結こそ免れているものの、代償として俺の体内からマナがさらに激しい速度で削り取られていく。
だが、俺は腕の激痛とマナ消費の悪寒を無視して耐え抜いた。剣は『つっかえ棒』として機能し、巨大な口は半開きのまま強引に固定される。
「ナギッ!」
叫ぶと同時、俺は剣から片手を離し、空いた左手で素早くマジックバッグから『高純度のマナ結晶』を取り出すと、魔蛇の口腔の奥深くへと放り投げた。
手放す直前に微量なマナを流し込まれ、意図的にバランスを崩された結晶は、ほんの僅かな衝撃でマナ暴走を引き起こす爆弾へと変貌している。
「……ッ、炎槍!」
意図を察したナギが、後方から杖の先端で圧縮した熱量を撃ち放つ。
狙い違わず、炎の魔法が口を開けたままの魔蛇の口腔内へと一直線に吸い込まれる。
着弾の刹那。
俺は剣を置き去りにしたまま、強引に後方へ跳躍した。
ドゴォォォォォォォォッ!!
ナギの炎がマナ結晶に引火し、狭い口腔内で凄まじい誘爆を引き起こした。
魔蛇の頭部が内側から無惨に弾け飛び、大量の青い血と氷の鱗が雪原へと撒き散らされる。
「はぁっ……はぁっ……」
俺は吹き飛んだ顎から転がり落ちた剣を拾い上げ、杖代わりに雪へ突き立てて必死に呼吸を整える。
マナの急激な消耗と、大蛇の咬合力に耐えたことで両腕の筋繊維がズタズタに引き裂かれている。本命を前にしては痛すぎる代償だ。
「……相変わらず、無茶苦茶な戦い方するわね。腕やられてるじゃない」
雪を掻き分けて歩み寄ってきたナギが、なんとも言えない表情を浮かべて俺を見る。
「……問題ない。ポーションで塞ぐ」
回復のために懐へ手を伸ばした――その時。
俺たちを覆い隠すように、足元の雪原に『巨大な影』が落ちた。
「――上だッ!」
上空から降ってくる圧倒的な質量を察知し、俺は咄嗟にナギの身体を足で強引に蹴り飛ばし、自身もその反動で後方へ跳躍した。
ズドォォォォォォォォォォンッ!!!!!
俺たちがつい先程まで立っていた空間に、家屋ほどもある巨大な氷塊が隕石のような速度で激突した。
大地が爆発したかのような轟音。吹き荒れる雪煙と、無数に砕け散った氷の破片が周囲を削り取る。
「っ……!」
暴風に巻き込まれ、俺とナギは為す術もなく雪原の上を数十メートルも弾き飛ばされた。
全身を打ち据える衝撃に視界が明滅する中、俺は必死に顔を上げ、土煙の向こうを睨みつける。
雪煙が晴れたクレーターの中心。
先程まで俺を苦しめた白魔蛇の死骸は、たった一撃で、跡形もなく肉片へと変えられていた。
そして。
その肉片を踏み躙るようにして、ゆっくりと立ち上がる巨大な影。
見上げるほどの巨躯。
全身を分厚い万年雪と青白い氷の装甲で覆い、二つの眼窩にただ純粋な殺意の光だけを灯した、圧倒的な暴力の化身。
――『氷の巨人』。
俺たちが追い求めていた本命の標的が、最悪のタイミングで、静かに俺たちを見下ろしていた。
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