幕間:泥にまみれて
宿の裏庭。人目を避けるようにして始まったそれは、訓練と呼ぶにはあまりに泥臭く、魔術師である私には過酷なものだった。
「……本気で言ってるの? 私に近接戦闘の真似事をしろって?」
私は手にした黒檀の杖をどう構えるべきかも定まらないまま、不満げに顔をしかめた。
「ああ……ここ数日の実戦でも感じたが、お前は戦闘中の隙が、余りに多過ぎる。それはいずれ、致命的な場面を招くことになる」
「私は後衛の魔法使いよ。敵が接近する前に魔法で仕留めるか、前衛が壁になるのが前提じゃない」
「敵が常に一体ならな。……俺が常に敵の狙いを完全に管理できる保証はない。伏兵、あるいは不測の事態で俺の対応が遅れることもある」
「……なら、その時は死ぬだけよ。元々、死罪を受け入れていた身だもの。今さら命を惜しむつもりは――」
「勘違いするな」
私の無気力な諦めを遮り、ご主人様は一歩踏み込んで木剣で私の杖を軽く打ち払った。
「あっ……!」
あっけないほど簡単に姿勢を崩し、私は地面に尻餅をついた。
攻撃を受けた際の重心の移動も、受け流す技術も、何一つ身についていない。魔法という遠距離からの暴力に頼り切り、自らが肉薄される恐怖と痛みに慣れていない証拠だ。
「お前を俺の戦術に組み込んでいる以上、俺の許可なくむざむざ死ぬことなど認めない。お前が勝手に死ぬということは、俺の生存率の低下に直結する」
「…………っ」
土埃を払いながら立ち上がる。
私の感傷的な死生観すら、ただの「戦術的損失」として切り捨てられた事実に、屈辱と苛立ちが込み上げてくる。
それと同時に、本当の意味で、私は自分の意思で死ぬことすら許されないのだと、この時ようやく思い知らされた。
「敵を倒せとは言っていない。杖を長く硬い棍棒だと思え。……相手の機先を削ぎ、俺がカバーに入るまでの数秒を稼ぐ。教えるのはそのための防御と足運びだけだ」
ご主人様は再び木剣の切っ先を下げ、私の姿勢を直させる。
「重心が高い。魔法を放つ時の立ち姿のままだ。もっと腰を落とし、地面を噛むように立て。……お前が数秒生き延びるだけで、俺の生存率は上がる」
「……本当に、どこまでも打算的なご主人様ね。自分が生き残るために、奴隷に泥臭い延命術まで叩き込もうなんて」
毒づきながらも、私はぎこちなく杖を構え直した。
奴隷として使い潰され、いずれ死ぬ。そんな安直な諦観すら、この男は許容しない。
勝手に死ぬ権利すら奪われ、泥に塗れてでも足掻けと要求される現実に、私の瞳からは先ほどの投げやりな色が少しずつ消えていく。
「もう一度行くぞ」
その言葉に、私は小さく息を吐き、杖を握る手に力を込めた。
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それからの時間は、私にとってただ泥に塗れるだけの無惨なものだった。
魔法使いとしての華麗な立ち回りなど見る影もない。容赦なく振り下ろされる木剣を前に、私は何度も何度も体勢を崩し、地面を転がった。
「遅い。杖の腹で受けるな、滑らせて威力を逸らせ」
「あっ……痛っ! ちょっと、本当に手加減してないじゃない!」
「実戦で魔物が手加減してくれるなら、そうしてやる」
息をつく間も与えられず、前後左右から執拗な打ち込みが続く。
何度も叩き伏せられ、立ち上がり、また転がる。呼吸は上がり、握る手は震え、衣服はすっかり泥まみれになった。
けれど、不思議なほどに骨に響くような「痛み」は少なかった。振り下ろされる木剣は正確に私を打つが、ただ私の体勢を崩し、重心の甘さを指摘するためだけの、神業に近いほど精密な手加減。
(今更だけど、多分この人、剣の天才なんだわ……)
門外漢の自分でも分かる程の、圧倒的な技量。それはステータスによるものではない、本人の持つ圧倒的なセンス。
なのに自らは付与術師という、剣を振るうには適さない才能しか持ち得なかった。
(だから、あんなに強くなることに拘るのかしら……強くなれる機会を手にしたから……)
そんなことを考えていると、再び厳しい打ち込みが入る。
「集中が切れているぞ。相手の剣だけではなく、全体を見て流れを予測しろ」
続けざまに襲いかかる剣戟を、必死に、無様に、受け続ける。
泥をすすり、肺を焼くような空気を吸い込みながら、私の思考はいつの間にか、そのやり取りにのみ集中していた。
「……次」
「行くぞ」
これまでで最も速く、鋭い踏み込みが私の肩口を狙う。
反応が遅れれば直撃する軌道。けれど、私は後ろへ逃げなかった。教えられた通りに低く腰を落とし、斜めに構えた杖の硬い部分を、自ら木剣の軌道へと滑り込ませた。
――ガァンッ!
硬質な音が響く。力負けして杖ごと弾き飛ばされ、私はまたしても無様に尻餅をついた。だが、木剣の軌道は完全に逸れ、虚空を斬っていた。
「……はぁっ、はぁっ……どう……よ。今のは……」
地面に座り込んだまま、肩で息をしながらご主人様を見上げる。
「悪くない。今のでお前は、死ぬまでの時間を二秒稼いだ。俺が敵の首を落とすには十分な時間だ」
「……たった二秒のために、全身痣だらけになりそうなんだけど」
痛む腕をさすりながら、深くため息を吐く。
その顔へ向けて、ご主人様はマジックバッグから取り出した小瓶を無造作に放り投げた。
「っ……何よ、これ」
慌てて空中で受け止めた私は、小瓶の中の澄んだ青い液体を見て目を丸くする。
「飲んでおけ」
「中級ポーション……? 打ち身くらい、安物の低級で十分治るじゃない。なんでこんな……」
今の稽古で負った程度の傷なら、こんな高価な薬は必要ない。それこそ「効率」を求めるなら、銀貨数枚は飛ぶような代物を浪費するのは矛盾している。
「中級なら蓄積した疲労も完全に抜ける。明日の実戦で、疲れが残っていて足がもつれましたでは話にならない」
淡々と告げるその言葉に、私は呆れたように短く息を吐き出した。
「……また、それ。ご主人様の生存に直結する必要経費、ってやつ?」
「そうだ」
短すぎる肯定に、私はジトッとした視線を向ける。
本当に効率だけを重んじるなら、わざわざ魔法使いの奴隷に近接の手ほどきをし、絶妙な手加減で打ち据え、挙句の果てに高価な薬まで与えるなんて手間をかけるより、使い捨ての肉盾を新しく買い足した方が遥かに安上がりで確実なはずだ。
……なのに、この人はそれをしない。
打算だ、効率だ、生存戦略だ。
そんな理屈をこれ見よがしに並べ立てて、結局のところ、この男はやけに手間のかかる遠回りな方法で私を『死なせない』ようにしている。
(……なんなのよ、本当に。素直に優しい言葉の一つも掛ければいいじゃない。……理屈っぽくて面倒な男)
私はふっと毒気を抜かれたように、微かに口元を綻ばせた。
文句を言うでもなく、大人しく小瓶の蓋を開け、青い液体を一気に飲み干す。淡い光が私を包み、全身の小さな痛みと疲労が嘘のように引いていく。
「……はいはい。私はご主人様の大事な『所有物』なんだから、壊れないよう、せいぜい丁寧に扱ってよね」
痛みが引いた腕を軽く回しながら、私はほんの少しだけ、声のトーンを落として呟いた。
腹立たしいほど理不尽で、呆れるほど理屈っぽいこの男の横で……泥をすすりながら足掻いてみるのも悪くない。
そんな考えを、ほんの少しだけ浮かばせながら、私は夕闇が迫る裏庭を、静かに後にした。




