075 ちいさなぼくのご挨拶
――ちいさなぼくのご挨拶――
向かいの雑貨屋の主人が店の奥へ戻っていくのを見送りながら、ふと思いついた。
「おじさん、ちょっとざっかやさんに、あいさつしてくるね!」
「……今、このタイミングで?」
「うん!」
行商人は、帳簿から顔を上げた。
「お前、まさかわざとじゃないだろうな……」
「?」
何のことだろう。
雑貨屋の主人は、さっき自分に話しかけてくれた。何度も店を見に来てくれていたようだし、こちらからも挨拶しておきたかった。
店先を出ようとすると、行商人が慌てて声をかけてきた。
「待て待て! 挨拶はいいが、勝手に商談まで始めるなよ!」
「あいさつだけだよ?」
「その『だけ』が信用できなくなってきたんだよ……」
行商人がため息をつく。
向かいの雑貨屋は、道を挟んですぐの場所にある。母から許されている町の中でもあり、何度も見かけているお店だった。
「すぐもどるね!」
「ああ。道を渡るときは気をつけろよ!」
「はーい!」
行き交う人や荷車がいないことを確かめてから、向かいの雑貨屋へ歩いていった。
◇ ◇ ◇
「こんにちは!」
店に入って声をかけると、奥で品物を整理していた主人が振り返った。
「おや、さっきの坊主じゃないか」
「えへへ! あいさつにきたよ!」
「わざわざ来てくれたのか。こんにちは」
主人は笑いながら、作業していた手を止めた。
店内には、食器や調理道具、紐、籠、保存容器など、暮らしに必要な品物が並んでいる。
行商人のお店でも見かけたことのある商品があったけれど、こちらは町の人が普段の買い物に訪れるお店らしい。
棚を眺めていると、主人が声をかけてきた。
「向かいのお店は、もう片付けが終わったのか?」
「うん! おじさん、ちょうぼみてる!」
「ははっ。ずいぶん忙しそうだったからな」
「おじさんのおみせ、なんかいもみにきてたよね?」
そう尋ねると、主人は少し驚いた顔をした。
「なんだ、気づいていたのか」
「うん!」
「最近、向かいの店にやたらと人が集まっていただろ? 何をやっているのか気になってな」
やっぱりそうだった。
主人は近くの椅子を引き寄せながら、興味深そうに尋ねてきた。
「そういえば、あの猫はお前が作ったんだろ?」
「うん! ぼくがつくったよ!」
「大したもんだ。あんなに小さいのに、よく作れるな」
褒めてもらえて、思わず笑顔になる。
「じゃあ、あのスープもお前が作ったのか?」
「ううん! つくったのはおじさんだよ!」
「そうなのか」
「ぼくは、おまめとおにくで、すーぷつくってうってみたらっていったの!」
「……ほう?」
主人が少し身を乗り出した。
「じゃあ、蜜蝋で木箱を綺麗にしていたのも?」
「うん! ぼくがやってみようっていったよ!」
「なるほどな……」
主人は腕を組み、何かを考え始めた。
「そうなると、あの香りの石鹸も?」
「あれはね、ぼくがぜんぶかったの!」
「全部?」
「じゅっこ!」
「十個も買ったのか?」
「うん! においのあぶらもかったよ!」
主人は驚いたように目を丸くした。
「それで、猫に同じ香りを付けたわけか」
「うん!」
「石鹸も全部売れたんだろ?」
「ぜんぶうれたよ!」
「……そうか」
主人は、しばらく黙っていた。
何を考えているのかは分からないけれど、さっきまでとは少し表情が違う。
もしかしたら、商品を売る方法について考えているのかもしれない。
けれど、今日は挨拶に来ただけだ。
行商人との約束もあるし、頼まれていないのに商売の相談を始めるつもりはなかった。
「じゃあ、これからもよろしくね!」
ぺこりと頭を下げる。
「ああ、こちらこそ……って、ちょっと待ってくれ」
帰ろうとしたところで、主人に呼び止められた。
「なに?」
「お前、向かいの行商人に雇われているのか?」
「やとわれてないよ?」
「そうなのか?」
主人は意外そうな顔をした。
「じゃあ、あの人の家族なのか?」
「ちがうよ!」
「弟子か?」
「それもちがう!」
主人が首を傾げる。
「じゃあ、どういう関係なんだ?」
「いまは、おてつだいしてるだけだよ!」
「手伝っているだけ……?」
「うん! つぎにおじさんがきたときから、そうだんするならおかねもらうって、おはなししてるよ!」
「……相談料?」
「うん!」
主人は少し驚いたようだった。
三歳の子供が商売の相談料をもらうという話は、珍しいのかもしれない。
「なるほどな。そういう話になっているのか……」
主人は向かいの店をちらりと見た。
「じゃあ、まだ正式に雇われているわけじゃないんだな?」
「うん!」
「そうか。分かった」
それ以上は何も聞かれなかった。
仕事を頼まれたわけでもないし、具体的な相談をされたわけでもない。
それでも、挨拶に来たおかげで、少しだけお互いのことを知ることができた。
「じゃあ、またね!」
「ああ。また遊びにおいで」
主人に手を振ってから、店を出た。
◇ ◇ ◇
向かいへ戻ると、行商人が腕を組んで待っていた。
「ただいま!」
「……おかえり」
なぜか、少し疲れた顔をしている。
「で、何を話してきたんだ?」
「あいさつ!」
「本当に、それだけか?」
「うん! でもね、むこうからきかれたよ!」
「……何を?」
「ぼくが、おじさんにやとわれてるのかって!」
行商人の表情が止まった。
「……それで?」
「やとわれてないっていったよ!」
「…………」
「かぞくでも、でしでもないって!」
行商人は額に手を当てた。
「お前なあ……」
「?」
何か間違ったことを言っただろうか。
まだ雇われていないし、弟子になった覚えもない。
次に来たときから相談料をもらうという話も、ちゃんと伝えておいた。
「あとね、つぎからそうだんするなら、おかねもらうっておはなししたよ!」
「そこまで話したのか!」
「きかれたから!」
「……そうか。聞かれたなら仕方ないな」
行商人は大きくため息をついた。
怒っているわけではなさそうだけれど、どうにも困った顔をしている。
そのとき、向かいの雑貨屋から主人が顔を出した。
こちらに気づくと、軽く手を上げる。
行商人も手を上げて応えた。
二人はしばらく顔を見合わせていたが、雑貨屋の主人は小さく笑うと店の中へ戻っていった。
「……なるほどな」
行商人がつぶやく。
「なに?」
「いや。あの主人も、なかなか商売熱心らしい」
「そうなの?」
「ああ。お前の話を聞いて、いろいろ考えているかもしれんな」
行商人はそう言うと、もう一度帳簿を開いた。
雑貨屋の主人が何を考えているのかは分からない。
仕事を頼まれたわけでもない。
それでも、向かいのお店の人と、ちゃんと挨拶ができた。
それだけで、今日は十分だった。
「おじさん!」
「……今度はなんだ?」
「ほかのおみせにも、あいさつしてこようかな!」
「今日はもう勘弁してくれ!」
行商人の声が店先に響いた。
どうしてそんなに慌てるのか分からず、思わず笑ってしまった。
行商人は、開いた帳簿を見つめながら、また何かを計算し始めていた。
魔法書の値引き交渉までは、まだ少し時間がある。
けれど、その前に考えなければならないことが、どうやら一つ増えてしまったらしい。




