071 ねこの最後の役目
――ねこの最後の役目――
残っている七個の香草石鹸を見る。
その隣には、同じ香りをまとった灰白猫がいる。
昨日までは、この猫をどうするのかまでは決めていなかった。
石鹸を売るために役立った。
でも、香りが苦手な人には売りにくくなったかもしれない。
行商人に言われてから、ずっと考えていた。
そして、ようやく一つ思いついた。
「おじさん」
「ん?」
「このせっけんが、ぜんぶうれたあとね」
「全部売れたあと?」
「うん」
まだ七個もある。
全部売れると決まったわけではない。
それでも、もし全部売れたら。
そのあとに来る人がいるかもしれない。
「せっけんほしくてきたひとに――」
石鹸を置いている場所を指差す。
「もうないってなったときが、このねこちゃんをうるとき」
「…………」
行商人が黙った。
石鹸を見る。
灰白猫を見る。
そして、もう一度石鹸を見る。
「……なるほど」
今すぐ灰白猫を売るつもりはない。
今、この猫には仕事がある。
猫を見て、気になった人が近づいてくる。
近くまで来れば、香りに気づく。
そこで同じ香りの石鹸があると知ってもらう。
昨日、三個の石鹸が売れたのも、その流れだった。
石鹸がまだ残っているのに猫を売ってしまえば、それができなくなる。
「じゃあ、今は売らないのか?」
「うん」
「いつまで?」
「せっけん、なくなるまで!」
行商人が少し考える。
「なら、売り物じゃないって分かるようにしといた方がいいな」
「ふだ?」
「ああ。欲しいって言われるたびに説明するより分かりやすい」
「かいて!」
行商人に頼んで、小さな札を書いてもらう。
《非売品・香り見本》
その札を、灰白猫のそばに置いた。
これなら、猫そのものを売っているわけではないと分かる。
今の灰白猫は、石鹸と同じ香りを知ってもらうための見本だ。
でも。
石鹸が全部なくなったら、この猫の仕事も終わる。
そこで、今度は猫を売る。
それだけではない。
「それでね」
「まだあるのか?」
「うん!」
石鹸がなくなったあとの売り場を指差す。
「せっけんほしいひとがきたら」
「売り切れました、だな」
「うん。そしたら――」
灰白猫を抱き上げる。
「これ、うる!」
行商人が少し眉を寄せた。
「石鹸がないから猫を売る?」
「うん!」
「……ああ、そういうことか」
何かに気づいたように、行商人が灰白猫を見る。
「つまり、今は猫を使って石鹸を売る」
「うん」
「石鹸がなくなったら、今度は石鹸を欲しがって来た客に猫を見せる」
「うん!」
そして、嬉しくなって続ける。
「こんどは、せっけんがねこちゃんをうるの!」
行商人が一瞬黙ってから、声を上げて笑った。
「なるほどな。お前の中じゃそうなるのか」
「ちがう?」
「いや。言いたいことは分かる」
最初は、猫が石鹸を売る。
猫を見て、香りを知って、同じ香りの石鹸を買ってもらう。
でも、石鹸が全部なくなったあとなら。
あの香りの石鹸が欲しかった人に、同じ香りの猫を見てもらえる。
しかも、この灰白猫は一つしかない。
何日も店先で作っていたから、作っているところを見た人もいる。
同じものが、いくつも並んでいるわけではない。
「でもな」
行商人が言った。
「一つ勘違いするなよ」
「?」
「石鹸が売り切れたからって、この猫まで欲しくなるとは限らん」
「あ」
「石鹸とあみぐるみじゃ、そもそも使い道が違う。それに値段だって同じにはならない」
「…………うん」
石鹸が欲しかった人が来る。
石鹸はない。
代わりに猫がある。
だから猫を買う。
そんなに簡単にはいかない。
「じゃあ、うれないかも?」
「もちろん」
「…………」
灰白猫を見る。
少し考える。
でも。
売れなかったとしても。
「ここにおいとく?」
「見本としてか?」
「うん」
この猫は、もともと店先で作っていた。
作っているところを見て、足を止めた人もいる。
完成してからも、石鹸の香りを知ってもらうために働いている。
もし石鹸がなくなったあとに売れなくても、店先に置いておけば、あみぐるみを作れることを見せる見本にはなる。
「それなら、売れなかった瞬間に何の役にも立たなくなるわけじゃないな」
「うん!」
絶対に売れる方法ではない。
それでも、試してみることはできる。
「じゃあ、本当に石鹸が全部売れるかだな」
行商人が七個の香草石鹸を見る。
「うん」
まずは、そこからだった。
◇ ◇ ◇
それから数日。
香草石鹸は、少しずつ減っていった。
一日に何個も売れる日ばかりではない。
誰も買わない日もあった。
猫の香りに気づいても、「いい匂いね」と言うだけで帰る人もいる。
普通の石鹸より高いからと、値段を見て戻す人もいた。
それでも、灰白猫は毎日そこにいる。
《非売品・香り見本》
札もそのまま。
猫に興味を持って近づいた人が香りに気づき、その横に置かれた石鹸を見る。
少しずつ。
本当に少しずつ。
七個あった石鹸が、五個になった。
さらに日が過ぎると、三個になった。
最後の二個になったころには、前に店へ来た人がこんなことを言うようになっていた。
「あの猫と同じ香りの石鹸、まだある?」
「あるよ!」
最初は。
香草石鹸という名前すら知らなかった人たちが。
灰白猫と同じ香り。
そう覚えてくれている。
「おじさん!」
「ああ。聞こえてたよ」
「ねこさんでおぼえてる!」
「みたいだな」
灰白猫を見る。
ずっと売らずに置いてきた。
もし最初の日に売っていたら、今ここにはいない。
そう思うと、すぐに売らなかったことにも意味があったように思えた。
そして。
最後の一個を手に取る客が現れた。
「これを一つ」
「…………!」
残っている場所を見る。
もうない。
「さいご!」
「そうみたいね」
代金を受け取り、最後の香草石鹸を渡す。
「ありがとう!」
客が去っていく。
もう一度、売り場を見る。
本当に何もない。
十個。
自分のお金で仕入れた香草石鹸が、全部なくなった。
「おじさん!」
「ああ」
「ぜんぶうれた!」
「十個全部だな」
「うん!」
嬉しくなって、空になった場所を何度も見る。
でも、行商人は帳簿を開いた。
「喜ぶのはいいが、忘れるなよ」
「?」
「売り切れたことと、儲かったことは同じじゃない」
「あ」
最初に払った百二十五枚。
香草石鹸十個だけではなく、香り油一瓶も一緒に買っている。
受け取った代金を全部数えて。
最初に払ったお金と比べなければならない。
「あとで、いっしょにかぞえる?」
「ああ。そこまでやって終わりだ」
「うん!」
売り切れた。
それだけで全部成功と決めてはいけない。
でも。
もう一つ、やることがある。
灰白猫の前に置かれている札を見る。
《非売品・香り見本》
「おじさん」
「なんだ?」
「これ、かえる」
「そうだったな」
今までの札を外す。
そして、新しい札を書いてもらった。
《一点物・販売品》
昨日まで売らなかった灰白猫が。
今日から初めて、商品になった。
◇ ◇ ◇
翌日。
一人の女性が店へやってきた。
商品を見ながら何かを探している。
やがて、石鹸を置いていた場所の前で足を止めた。
「前にここにあった、香りのする石鹸は?」
「…………!」
行商人を見る。
行商人もこちらを見た。
でも、何も言わない。
自分で答える。
「ぜんぶうれちゃった」
「あら……」
女性は残念そうに、空いた場所を見る。
本当に来た。
考えていた通り。
石鹸を欲しがって、もう一度来た人。
でも。
ここから先まで思った通りになるとは限らない。
女性が帰るのか。
黙って見ている。
すると。
「あら?」
女性が鼻を動かした。
「でも、この香り……」
視線が動く。
その先にいるのは、灰白猫。
何日も店先に置かれていた猫には、まだほんのりと同じ香りが残っている。
女性が近づいた。
「この猫から?」
「うん!」
「石鹸と同じ香り?」
「おなじだよ!」
女性が灰白猫を見る。
その横にある札にも気づいた。
《一点物・販売品》
以前は。
《非売品・香り見本》
だったもの。
女性が札を見てから、もう一度猫を見る。
「これ、今は買えるの?」
「うん!」
「前は売ってなかったわよね?」
「せっけんあるときは、うらなかった!」
「そうなの?」
「うん!」
女性は少し不思議そうにしながらも、灰白猫を眺め続ける。
作っているところを見ていた人もいる。
何日も店先に置かれていたから、覚えている人もいる。
そして、同じ香りの石鹸はもうない。
今、この香りが残っているのは灰白猫だけだった。
女性の目が、値札を探す。
「……これは、いくら?」
「…………」
そこで。
止まった。
まだ値段を決めていない。
思わず行商人を見る。
でも、行商人は何も言わなかった。
今までなら。
材料にいくらかかったのか。
どれくらいの値段なら売れそうなのか。
相談していた。
けれど今回は、自分の商品だ。
灰白猫に使った毛糸。
詰め物。
ボタン。
作るためにかかった時間。
何日も店先で作りながら、人を呼んでくれたこと。
完成してからは、香草石鹸を売るための見本として働いてくれたこと。
そして今は。
同じものが一つもない、手作りの猫として売ろうとしている。
考えなければならないことが、たくさんある。
「…………」
灰白猫を見る。
石鹸を売るために置いていたときと。
今では。
同じ猫なのに、役目が違う。
最初は、作っているところを見てもらうため。
完成してからは、石鹸と同じ香りを知ってもらうため。
石鹸が全部なくなった今は。
この猫自身が商品になった。
一つのものでも。
ずっと同じ使い方をしなければならないわけではない。
でも。
役目を変えたからといって、必ず売れるわけでもない。
女性はまだ、返事を待っている。
行商人も口を出さない。
最後に値段を決めるのは。
自分だった。




