070 ねこと香りと香草石鹸
――ねこと香りと香草石鹸――
香草石鹸と香り油を前にして、店先に置かれた灰色と白の猫を見る。
灰白猫は、もうすぐ完成する。
店先で作っているところを見せていたから、昨日も何人かが足を止めていた。
香り油の小瓶を手に取り、もう一度灰白猫を見る。
「これにつかう」
行商人が眉を上げた。
「石鹸じゃなくて、あみぐるみに?」
「うん!」
「香りを付けるのか?」
「うん」
香り油は、香草石鹸と同じ匂いがする。
その香りを猫にも付ければ、猫を見に来た人にも同じ匂いを知ってもらえる。
「なるほどな」
行商人はそう言ったものの、すぐにこちらの手を止めた。
「いきなり付けるなよ」
「うん」
それは、蜜蝋のときにも教わった。
いきなり木箱全体に使うのではなく、まずは目立たないところで少しだけ試した。
香り油も同じだ。
「けいと、へんになるかもしれない?」
「そうだ。油だからな。染みになるかもしれんし、色が変わる可能性もある」
「じゃあ、ためす」
「それがいい」
余っていた、灰白猫と同じ毛糸を持ってくる。
そこへ香り油を付けようとして、行商人を見る。
「いっぱい?」
「いや。試すなら少しでいい」
「うん」
ほんの少しだけ毛糸に付ける。
すぐに顔を近づけようとすると、行商人に止められた。
「待て」
「?」
「付けたばかりだろ。少し置け」
「どれくらい?」
「まずは様子を見ろ」
言われた通りに待ちながら、毛糸をじっと見る。
すぐには何も変わらない。
それでも気になって見続けていると、行商人が呆れたように笑った。
「そんなに見ても急には変わらんぞ」
「でも、かわるかも」
「まあな」
だから、もう少し待つ。
しばらくしてから、改めて毛糸を確認した。
色は変わっていないように見える。
「かわってない?」
「見た感じはな」
指でも触ってみる。
油っぽさが残っていないか。
染みが広がっていないか。
自分だけでは分からないところは、行商人にも見てもらう。
「少量なら大丈夫そうだな」
「じゃあ、ねこさんにつける!」
灰白猫へ手を伸ばしたところで、また止められた。
「待て待て」
「?」
「外側に直接付けるのか?」
その言葉に、灰白猫を見る。
毛糸で試した限りでは問題なさそうだった。
でも、量が増えればどうなるかは分からない。
触ったときに油が手につくのも嫌だ。
灰白猫を持ち上げて、外側を見たあと、中の詰め物へ目を向ける。
「なか?」
「詰め物に付けるのか?」
「うん」
そこなら、香り油が外側の毛糸へ直接触れにくい。
行商人も少し考えてから頷いた。
「やるなら、本当に少しだけにしろよ」
「うん!」
中へ入れる詰め物の一部に、ほんの少しだけ香りを含ませる。
たくさんは使わない。
それを残りの詰め物と一緒に入れて、形を崩さないように整えてから、最後の部分を閉じる。
完成しても、すぐには何度も触らなかった。
少し時間を置いてから灰白猫を持ち上げてみる。
見た目は何も変わっていない。
灰色と白の毛糸に、黒いボタンの目。
いつもの灰白猫だ。
けれど、鼻を近づけると。
ふわっと、香草の匂いがした。
「……!」
香り油の瓶を直接嗅いだときほど強くない。
抱いたり、近くに置いたりしたときに、ようやく気づくくらいの香りだった。
「おじさん!」
「どうした?」
「においする!」
「そりゃ付けたからな」
「かいで!」
「分かった分かった」
行商人が灰白猫へ顔を近づける。
少しして、その表情が変わった。
「……なるほど」
「いいにおい?」
「ああ。これくらいなら強すぎないな」
「せっけんとおなじ?」
「同じ香りだ」
嬉しくなって、香草石鹸を持ってくる。
灰白猫と石鹸を交互に嗅いでみると、やっぱり同じ香りがした。
「おなじ!」
見た目は何も変わっていない。
それでも、この猫には昨日までなかったものが一つ増えていた。
◇ ◇ ◇
翌日。
完成した灰白猫を店先に置いた。
ただし、すぐ隣に石鹸は置かない。
札にも香草石鹸のことは書かなかった。
行商人も、昨日言った通り何も口を出さず、少し離れたところから見ている。
しばらくすると。
「あ!」
昨日、作っているところを見ていた子が、母親の手を引いて店先へやってきた。
「できた!」
「うん! できたよ!」
「かわいい!」
嬉しそうに灰白猫を眺める子の隣で、母親も足を止める。
「昨日作ってた猫ね」
「うん!」
母親も猫を見ようと近づいてきた。
すると。
「あら?」
女性が少し鼻を動かした。
「いい香り」
「…………!」
気づいた。
こちらから何も言わなくても、ちゃんと香りに気づいてくれた。
「これ、猫から?」
「うん!」
そこで初めて、自分で買った香草石鹸を出す。
「ねこさんと、おなじにおいのせっけんあるよ」
「同じ?」
「うん!」
女性が石鹸を手に取り、包装の上から香りを確かめる。
それから、もう一度灰白猫へ顔を近づけた。
「本当。同じ香りね」
「うん!」
思った通りだった。
猫を見てもらって。
近づいたところで匂いに気づいてもらって。
それから石鹸を見てもらう。
ちゃんと、そこまではできた。
「どう?」
期待しながら聞く。
女性は石鹸を見て少し考えたけれど、やがて元の場所へ戻した。
「いい香りだけど、家にまだ石鹸があるから」
「…………」
買ってはもらえなかった。
「そっか」
「ごめんね」
「ううん」
母子はもう一度灰白猫を眺めてから、店を離れていった。
残った石鹸は十個。
一つも減っていない。
行商人を見ると、向こうもこちらを見ていた。
「売れなかったな」
「うん」
「やめるか?」
灰白猫を見る。
女性は、いい香りだと言ってくれた。
石鹸と同じ匂いだとも分かってくれた。
それでも買わなかった。
だからといって、やり方が全部間違っていたとはまだ決まっていない。
「まだやる」
「そうか」
行商人は、それ以上何も言わなかった。
次に来た人も猫の香りには気づいた。
石鹸も見てくれた。
けれど、その人も買わなかった。
石鹸はまだ十個のまま。
さすがに少し心配になってくる。
百二十五枚。
ちゃんと自分のお金で払った。
このまま一つも売れなければ、十個全部を自分の商品として持って帰ることになる。
それでも、もう少し待ってみることにした。
やがて三人目に、若い女性が灰白猫の前で足を止めた。
「可愛い猫ね」
「うん!」
女性が少し近づいたところで、鼻を動かす。
「あれ? これ、いい匂いする」
「うん!」
今度も香草石鹸を見せる。
「そのせっけんと、おなじだよ!」
「これ?」
「うん!」
女性が石鹸を手に取り、包装越しに香りを確かめた。
「本当だ」
灰白猫を見る。
石鹸を見る。
そして、もう一度灰白猫を見る。
すぐには買わなかった。
値段も確かめている。
普通の石鹸より高いことは、何も変わっていない。
ここで何か言いたくなったけれど、黙って待つ。
少しして。
女性が石鹸を持ち上げた。
「じゃあ、一つもらおうかな」
「…………!」
思わず行商人を見る。
行商人もこちらを見ていた。
「うれた!」
「お前の商品だろ。お前が売れ」
「あ!」
そうだった。
これはもう、行商人の商品ではない。
自分で仕入れた、自分の商品だ。
代金を受け取り、落とさないように数を確認してから、石鹸を一つ渡す。
「ありがとう!」
「こちらこそ」
女性が歩いていったあと、残った石鹸を確かめる。
九個。
本当に一つ減っている。
初めて、自分で仕入れた商品が売れた。
嬉しい。
けれど、一個売れただけで、まだ九個も残っている。
「おじさん」
「なんだ?」
「もういっかいやる!」
「好きにしろ。お前の商品だ」
「うん!」
今度は、灰白猫の隣に香草石鹸を置いてみる。
ただ並べるだけではなく、二つが同じ香りだと分かるようにしたい。
「おじさん」
「ん?」
「かいてほしい」
「何を?」
灰白猫と香草石鹸を順番に指差す。
「このこと、おなじにおい」
「札か?」
「うん!」
行商人に頼んで、小さな札を書いてもらった。
《この子と同じ香り》
灰白猫の横に、香草石鹸と札を置く。
通りから見れば、先に目に入るのは猫だ。
気になって近づけば香りに気づく。
そして、そのすぐ横には同じ香りの石鹸がある。
午前中に、もう一個。
午後になって、さらに一個。
一日で三個の石鹸が売れた。
残った石鹸を、一つずつ数える。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな」
間違いなく七個だ。
「おじさん!」
「見てるよ」
「ななこ!」
「ああ」
行商人が持っていたころは、十一個のうち一個しか売れていなかった。
それが今日は、一日だけで三個売れた。
それでも、目の前にはまだ七個残っている。
「ぜんぶうれなかった」
「一日で全部売れると思ってたのか?」
「…………ちょっと」
「欲張りだな」
「だめ?」
「駄目とは言ってない」
行商人が笑ってから、灰白猫と石鹸を順番に見た。
「ただ、変わったのは確かだな」
「なにが?」
「石鹸そのものは何も変わってない。値段も同じだし、中身も同じだ」
「うん」
言われてみれば、その通りだ。
香草石鹸は昨日までと同じもの。
安くしたわけでも、何かを混ぜたわけでもない。
「なのに、昨日までより売れた。何を変えた?」
「ねこさん?」
「それもあるな。正確には、客がその香りを知る順番を変えたんだろう」
「じゅんばん?」
「ああ。前は客が最初に石鹸を見てた」
行商人が指を立てながら説明してくれる。
「石鹸を見て、値段を見て、普通の石鹸より高いと思う。そのあとで香りを確かめる」
「うん」
「でも今日は違った。最初に猫を見て、気になって近づいて、そこで香りに気づいた」
灰白猫を見る。
今日来た人たちも、最初は石鹸を見ていなかった。
みんな猫を見ていた。
「そこで『いい匂いだ』と思ったあとに、同じ香りの石鹸があると知った」
「せっけん、あと?」
「そういうことだ」
前は石鹸から始まった。
今日は猫から始まった。
売っている石鹸は同じなのに、そこへたどり着くまでが違っていた。
「じゅんばん、ちがう」
「ああ」
少しだけ、分かった気がする。
香りは目では見えない。
だから、いい匂いだと書くだけでは、どんな匂いなのか分からない。
でも今日は、猫を見に来た人が先に自分で香りを感じてくれた。
そのあとで、同じ香りの石鹸を見せた。
「…………」
灰白猫を見る。
うまくいった。
そう思いかけたところで、行商人が口を開いた。
「ところで」
「?」
行商人が香り油の小瓶を指差す。
「石鹸が三個売れたからって、その分が全部儲けになったわけじゃないぞ」
「あ」
百二十五枚。
石鹸十個と香り油一瓶を買うために、最初に自分で払っている。
「ぜんぶうれたら?」
「全部売れたら、そのときに受け取った金を全部足してみろ」
「ひゃくにじゅうごよりおおかったら、もうかった?」
「まずはそう考えてもいい。ただ、それだけじゃない」
「まだあるの?」
「ああ」
行商人が灰白猫を指差した。
「その猫だ」
「ねこさん?」
「石鹸を売るために使っただろ」
灰白猫を見る。
香りを付けたことで、猫を見に来た人が石鹸に興味を持ってくれた。
そこまでは、思った通りだった。
「でも、その香りが嫌いな客もいるかもしれない」
「…………」
「猫そのものは気に入っても、匂いが嫌だから欲しくないって奴が出るかもしれん」
「あ」
そこまでは考えていなかった。
自分はいい匂いだと思った。
今日来た人たちも、いい香りだと言ってくれた。
でも、みんなが同じように好きだとは限らない。
灰白猫を抱き上げ、もう一度香りを確かめる。
さっきまでは石鹸を売るためのいい方法にしか思えなかったのに、今は少し違って見える。
「だめだった?」
「そうは言ってない。実際、石鹸は動いたからな」
「うん」
「ただ、一つを売りやすくしたせいで、別の物が売りにくくなることもあるってことだ」
「むずかしい……」
「ああ。だから、そこまで見て商売だ」
石鹸が売れた。
それだけなら嬉しい。
でも、本当に増えたのかを知るには、最初に払った百二十五枚のことも考えなければならない。
香り油も買っている。
そして、石鹸を売るために使った灰白猫にも、今までとは違う条件が一つ増えてしまった。
七個残っている香草石鹸を見る。
その隣には香り油があり、さらに灰白猫がいる。
今日だけで三個売れたのだから、昨日までとは明らかに違う。
それでも、本当にこのやり方で儲けが残るのかは、まだ分からない。
香りを付けた灰白猫を、このあとどう扱うのかも考えなければならない。
初めて自分で仕入れた商売は、三個売れただけでは終わらなかった。




