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ちいさなぼくのまもるもの  作者: 星乃いりす


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006 知らなかった痛み

――知らなかった痛み――


目の前にいる生き物を、じっと見た。


灰色がかった茶色の毛。


尖った鼻。


四本の脚。


長い尾。


町で見かけた犬よりも少し大きい。


けれど、分かるのはそれくらいだった。


狼という名前も知らない。


野生の獣がどれほど危険なのかも知らない。


だから、幼い目には――。


大きな犬のように見えた。


「…………」


一歩、前へ出た。


「やめろ!」


後ろから近所のおじさんの声が飛んでくる。


けれど、なぜ止められたのか分からない。


もう一歩。


狼の耳がぴくりと動いた。


それでも逃げない。


だったら、触れるかもしれない。


右手を伸ばした。


以前、町で見かけた犬のように。


優しくすれば大丈夫なのだろうと、何の根拠もなく思っていた。


「いい子……」


もう少し。


あと少し近づけば、頭を撫でられる。


だが――。


狼の身体が低く沈んだ。


「ウゥゥ……」


低い音が聞こえた。


足が止まる。


「…………?」


初めて聞く音だった。


狼の口元が持ち上がり、その奥から白い牙が覗く。


それが「それ以上近づくな」という警告であることを、まだ知らない。


怒っているということさえ、分からなかった。


だから――。


さらに一歩。


踏み出した。


その瞬間だった。


「ガウッ!!」


狼が動いた。


先ほどまで二十メートルほど先にいたはずの灰色の身体が、突然こちらへ飛び出す。


何が起きたのか理解する暇もない。


伸ばしていた右手に――。


ガッ!


鋭い衝撃が走った。


「っ!!」


今まで感じたことのないものだった。


熱い。


痛い。


何が起きたのか分からない。


ただ、右手がものすごく痛い。


狼は腕に噛みついたまま引き倒したわけではなかった。


近づいてくる存在を拒むように飛びかかり、その牙が右手の甲から前腕にかけて引っかかったのだ。


それでも、三歳の小さな身体には十分だった。


皮膚が裂ける。


そこから赤いものが流れ出した。


「う……」


衝撃に耐えきれず、その場に尻もちをついた。


右手を見る。


赤い。


血だった。


けれど、それがどうして出ているのかを考えるよりも、痛みの方がずっと強かった。


「オラァッ!!」


大きな声が響いた。


近所のおじさんが駆け込んでくる。


手には鉈が握られていた。


それを振り上げ、大声を出しながら狼との間へ入ろうとする。


狼が顔を上げた。


こちらではなく、迫ってくる大人を見る。


その後ろからは母親も走ってきていた。


一人ではない。


武器を持った成人男性もいる。


狼はそれ以上向かってこなかった。


くるりと身体の向きを変える。


そして草むらへ飛び込むと、そのまま森とは違う方向へ走り去っていった。


おじさんは追わなかった。


「坊主!」


狼の姿が消えたことを確認すると、すぐにこちらへ振り返る。


ほとんど同時に、母親もたどり着いた。


「見せて!」


母親がしゃがみ込み、右手を取った。


「…………!」


その顔から血の気が引いた。


小さな手。


そこから腕にかけて残った傷。


そして流れる血。


「帰るよ。すぐ!」


母親に抱き上げられる。


ついさっきまで、自分の足で歩いてきた道。


草原を抜け。


畑の横を通り。


古い石の祠を通り過ぎる。


今度は一歩も歩かなかった。


母親の腕の中から、来た道が後ろへ流れていく。


「…………」


黙ったまま、母親に抱かれていた。


右手が痛い。


身体も疲れている。


そして何より、さっき起きたことをまだうまく理解できていなかった。


ただ一つ。


抱きしめている母親の身体が震えていることには気づいた。


いつもとは違う。


怒っているのだろうか。


まだ分からない。


けれど。


その腕は、自分を落とさないように強く抱きしめていた。


          ◇ ◇ ◇


町へ戻ると、すぐに傷を洗われた。


「っ……!」


水が傷口に触れる。


狼に傷つけられたときとは違う、染みるような痛みが走った。


逃げようとしても、母親に右腕を支えられている。


「我慢して」


傷をつけたのは野生の動物だ。


汚れたままにしておくわけにはいかなかった。


何度も、念入りに傷口が洗われた。


その後、町で治療の知識を持つ医者にも診てもらった。


幸い、狼の牙が深く食い込んだ傷ではなかった。


それでも油断はできない。


薬草を使った処置が施され、右手から腕にかけて布が巻かれていく。


この町には、傷をたちどころに癒やしてくれるような魔法を使える者はいない。


だから傷は、自分の身体が少しずつ治していくしかなかった。


しばらくの間、右手を使う遊びには不自由するだろう。


傷が綺麗に消えるのか。


それとも痕が残るのか。


今はまだ、誰にも分からなかった。


布の巻かれた右手を見つめる。


「…………」


朝にはなかったものだ。


痛みも。


傷も。


布も。


すべて、初めてだった。


木屑を食べたときにも、一つのことを知った。


木屑は食べ物ではない。


けれど今回は、それとは比べものにならないほど強く、身体に残る経験だった。


知らない動物には、近づいてはいけないことがある。


手を伸ばせば、傷つけられることがある。


痛いということ。


怪我をするということ。


そして――。


自分より強いものがいるということ。


ほんの少し前まで、狼の唸り声が何を意味しているのかさえ知らなかった。


牙を見せられても、それが警告だと分からなかった。


知らなかったから、近づいた。


そして傷ついた。


だから今は、少しだけ知っている。


それだけだった。


怪我をしたからといって、急に強くなったわけではない。


危険な目に遭ったからといって、何か特別な力を得たわけでもない。


痛いものは痛い。


傷つけば血が出る。


知らないことを知るには、ときに代償が伴う。


三歳の夏。


それを、自分の身体で初めて知った。


          ◇ ◇ ◇


その日の夜。


いつもの食卓に、三人がいた。


けれど、いつもの夕食とは少し違った。


右手には白い布が巻かれている。


父親は仕事をいつもより早く切り上げて帰ってきていた。


食卓を挟んだ向こう側から、父親と母親がこちらを見ている。


「…………」


二人を見る。


母親は昼間ほど慌ててはいない。


けれど、いつもの顔とも違う。


父親も何も言わない。


怒られるのだろうか。


まだ、それさえ分からない。


しばらくして。


父親が口を開いた。


「……どうしてあんなところまで行った?」


大きな声ではなかった。


幼い我が子にも分かるように、一つ一つ、ゆっくりと尋ねる。


父親を見る。


それから母親を見る。


そして、布に包まれた自分の右手へ視線を落とした。


今日は、たくさんのことがあった。


家から歩いた。


いつもの遊び場を越えた。


知らない祠を見つけた。


草原まで行った。


遠くから自分の家を探した。


大きな犬のような生き物を見つけた。


触ろうとした。


そして――痛かった。


けれど。


父親が聞いているのは、それよりも前のことだった。


なぜ、あんな遠くまで行ったのか。


小さな頭で考える。


自分は約束を破ったつもりなどなかった。


母親の言葉も、ちゃんと覚えていた。


――家の見えるところまでよ。


だから。


ずっと、家が見えるか確かめながら歩いていた。


ただ。


どこまで行けるのか、知りたかっただけだった。

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ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺️ 少しでも「続きが気になる」「この子をもう少し見守ってみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。 皆さまからの応援を励みに、これからも小さな主人公の物語を大切に書いていきます。 次のお話も楽しんでいただけますように。
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