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ちいさなぼくのまもるもの  作者: 星乃いりす


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007 約束の意味

――約束の意味――


その日の夜。


食卓を挟んで、父親と母親がこちらを見ていた。


「……どうしてあんなところまで行った?」


父親の問いかけに、少し考えてから答えた。


「おうち、みえた」


「…………」


父親が黙った。


母親も黙った。


そして二人は、ほとんど同時に顔を見合わせた。


「…………?」


不思議そうに二人を見る。


嘘は言っていない。


あんなに遠くまで歩いたけれど、何度も後ろを振り返った。


途中でどれが自分の家なのか分からなくなったときも、一生懸命探した。


そして最後には、ちゃんと見つけたのだ。


だから約束は守っていた。


そう思っている。


父親は怒鳴らなかった。


しばらく何かを考えてから、もう一度ゆっくり尋ねる。


「……母さんに何て言われた?」


それなら覚えている。


「おうち、みえるところ」


父親が少しだけ眉を寄せた。


「だから、家が見えるところまで行ったのか?」


こくん。


素直に頷いた。


「…………」


父親は額に手を当てた。


「……そういうことか」


その隣で、母親もようやく気づいたようだった。


「あ……」


そこで初めて、二人にも分かった。


約束を破って遊びに行ったのではない。


母親の言葉を無視したわけでもない。


むしろ逆だった。


言われたことを覚えていた。


そして、それを守ろうとしていた。


ただ――。


言葉の意味が違っていた。


母親の言った「家の見えるところまで」は、家の近くで遊びなさい、という意味だった。


けれど、三歳になったばかりの幼い頭には、そのままの意味で伝わっていた。


家が見えている場所。


ならば、家さえ見えていればどこまで行ってもいい。


だから何度も振り返った。


家が見えることを確認しながら歩いた。


母親は椅子から立ち上がると、目の前まで来てしゃがんだ。


視線の高さを合わせる。


「ごめんね。母さんの言い方が悪かった」


怒られると思っていたのに。


「…………」


母親を見つめる。


母親は家の外へ視線を向けると、ある場所を指差した。


「あそこに大きな木があるでしょう?」


家の前には、一本の大きな木が立っている。


いつも見ている木だった。


そちらを見る。


「あの木」


母親がもう一度指差した。


「一人でお外に行くときは、あの木より遠くに行っちゃだめ。おうちが見えてても、だめ」


木を見る。


それから母親を見る。


今度は分かりやすかった。


家が見えるかどうかではない。


――あの木まで。


木よりこちらならいい。


木より向こうへ行ってはいけない。


どこまでなのか、目で見れば分かる。


曖昧だった境界線が、一本の大きな木によって、はっきりした。


すると父親が、もう一つ付け加えた。


「それから」


父親の視線が、布の巻かれた右手へ向かう。


「今日みたいな知らない動物がいたら近づくな。犬に見えてもだ」


つられるように、自分の右手を見る。


今でも少し痛い。


「撫でたかったのか?」


こくん。


頷く。


あの生き物が嫌いだったわけではない。


怖がらせようとしたわけでもない。


ただ、大きな犬のように見えたから。


撫でてみたかった。


それだけだった。


「動物にもな、触られたくないときがある」


父親は分かりやすいように、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「唸ってるときは『来るな』って言ってるんだ」


「くるな……?」


昼間の光景を思い出す。


灰色がかった茶色の毛。


低く沈んだ身体。


見えていた牙。


そして――。


『ウゥゥ……』


あの声。


あれには意味があった。


「……くるな?」


「そうだ」


父親が頷く。


「怖がってたり、怒ってたりするとな。だから、そういうときは触りに行ったらだめだ」


包帯の巻かれた右手を見つめる。


狼は突然、自分を傷つけたのではなかった。


その前に、ちゃんと伝えていた。


――来るな。


けれど、その意味を知らなかった。


知らなかったから、近づいた。


そして傷ついた。


動物の習性について、難しいことまでは分からない。


それでも。


唸っているとき。


牙を見せているとき。


身体を低くしているとき。


そんな動物には近づいてはいけない。


それなら覚えられる。


右手には、まだ傷がある。


痛みも残っている。


きっと、あの声を聞けば思い出す。


そして、もう一つ。


まだうまく言葉にはできないけれど、分かったことがあった。


「家の見えるところまで」


母親も嘘を言っていない。


自分も約束を破ったつもりはなかった。


それなのに、考えていた場所はまったく違っていた。


同じ言葉なのに。


思っていたことは同じではなかった。


「…………」


少し難しい。


けれど。


次からは、あの木まで。


それなら分かる。


          ◇ ◇ ◇


それから数日が経った。


右手の傷は、少しずつ塞がり始めていた。


熱が出ることもなかった。


傷口がひどく腫れることもない。


今のところ、治り方に問題はなさそうだった。


とはいえ、まだ完全に治ったわけではない。


右手には相変わらず布が巻かれている。


強く握ったり、ぶつけたりすれば痛む。


だから以前のように自由には使えなかった。


そして――。


あの日以来、もう一つ変わったことがある。


「…………」


庭先で洗濯物を干している母親が、ちらりとこちらを見る。


家の前にいる。


少しすると。


また母親が見る。


「…………」


何もしていない。


それでも、しばらくするとまた確認される。


ほんの数日前。


少し目を離した間に、町外れを越えて草原まで歩いていったのだ。


母親が何度もこちらを見るようになったのも、仕方のないことだった。


そして。


目の前には、大きな木が立っている。


新しい境界線。


――ここまで。


木のところまでは、一人で行ってもいい。


でも、その先へ行ってはいけない。


木を見上げる。


今度の約束なら迷わない。


家が見えるかどうかを確かめる必要もない。


この木を越えなければいい。


その木の根元で、何かが動いた。


「…………?」


視線を落とす。


小さな黒い虫がいた。


黒く硬そうな身体。


そして頭には、角のようなものがある。


ゆっくりと地面を歩いている。


初めて見る虫だった。


少し離れた場所には、もう一つ気になるものがあった。


以前にも見かけた茶色い犬。


地面に身体を横たえ、のんびりと休んでいる。


犬はこちらに気づいていた。


顔だけを向けている。


けれど――。


「…………」


じっと犬を見る。


唸っていない。


牙も見せていない。


身体を低く構えてもいない。


数日前に父親から教わったことを、一つずつ確かめる。


あの狼とは違う。


だからといって。


触っていいのかどうかまでは、まだ分からない。


トントントン……。


家の方から、聞き慣れた音がした。


父親の仕事場だ。


槌を使っているのだろう。


トントントン……。


木の根元には、角のある黒い虫。


少し離れたところには、茶色い犬。


後ろでは母親が洗濯物を干している。


そして仕事場からは、父親の作業する音。


その真ん中に立っていた。


右手には、まだ包帯が巻かれている。


大きな木の向こうには行けない。


けれど――。


小さくなった世界の中にも、まだ知らないものはたくさんあった。

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ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺️ 少しでも「続きが気になる」「この子をもう少し見守ってみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです。 皆さまからの応援を励みに、これからも小さな主人公の物語を大切に書いていきます。 次のお話も楽しんでいただけますように。
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