048 欲しいものと必要なもの
――欲しいものと必要なもの――
四冊の魔法書を前にして、しばらく動けなかった。
『魔力感知と瞑想法』
『初級術式図解』
『魔法生物入門』
そして、夏に少しだけ読ませてもらった、
『はじめての魔力――魔術基礎入門』
「…………」
読みたい。
できるなら、今すぐ全部開いてみたい。
けれど。
腕の中には、さっき買った材料がある。
白い毛糸。
赤い毛糸。
詰め物。
ボタン。
リボン。
それを見てから、もう一度魔法書を見る。
「……きょうは、かわない」
「ん?」
行商人が少し意外そうな顔をした。
「欲しかったんじゃないのか?」
「ほしい!」
即答した。
「だったら買わないのか?」
「うん」
「なんでだ?」
少し考えてから答える。
「おじさん、いつまでいる?」
「まだしばらくいるぞ」
「じゃあ――」
魔法書を指差す。
「おじさんが、つぎのところいくひにかう!」
「最後の日に?」
「うん!」
行商人は一瞬分からないようだった。
けれど、すぐに何かに気づく。
「……ああ。そういうことか」
「?」
「今は金を残しておきたいんだな?」
「うん!」
今はまだ、商売の途中だ。
マフラーも全部売れたわけではない。
白猫だって、これから作らなければならない。
途中で失敗するかもしれない。
買った材料で足りなくなるかもしれない。
また別の注文が来るかもしれない。
そうなったとき。
先に本を買ってしまって、お金がなくなっていたら困る。
でも。
行商人が町を出る日まで待てば。
その間にいくら売れたのか。
いくら使ったのか。
最後にいくら残っているのか。
それを見てから決められる。
「お前、今すぐ読みたくならないのか?」
「なる!」
また即答した。
行商人が笑う。
「そこは我慢できないとは言わないんだな」
「よみたいよ?」
「じゃあなんで待つんだ?」
「さいごでも、かえるから!」
「…………」
少し間があって。
「そりゃそうだ」
行商人は笑った。
「ただしな」
「?」
行商人が魔法書を一冊持ち上げる。
「最後の日まで、これが残ってる保証はないぞ」
「…………?」
「商品だからな」
そこで初めて気づいた。
この本は、自分のために持ってきてくれたものではない。
初心者向けの本を探してくれるとは言っていた。
でも、店に並んだ以上は商品だ。
自分以外の誰かが、
「これを買う」
と言えば、その人に売る。
「なくなる?」
「買う奴がいればな」
「…………」
四冊を見る。
町の人が魔法書を買うことは、あまり多くないらしい。
高い。
それに、魔法を学ぼうとする人ばかりでもない。
けれど。
絶対に誰も買わないとは限らない。
町を通る旅人が買うかもしれない。
近くから来た人が買うかもしれない。
「取っておいてほしいなら、それもできる」
「ほんと?」
「ああ。ただし、その場合は別の客には売れなくなる」
「…………」
「だから、買う約束をしてもらったり、先にいくらか払ってもらったりすることもある」
また手付金に似た話だ。
自分のために残してもらうなら。
行商人も、その間はほかの人へ売れなくなる。
「どうする?」
「…………」
本を見る。
欲しい。
なくなったら、きっと残念だ。
でも。
今は、いくら使えるのかも分からない。
白猫の仕事だって始まったばかり。
少し考えて――。
「とっておかなくていい」
「いいのか?」
「うん」
誰かが先に買ったら、そのときは仕方ない。
今は、本を確保するためにお金を使うより。
作るためのお金を残しておく。
そう決めた。
「分かった」
行商人も、それ以上は何も言わなかった。
ただ。
値段だけは確認しておく。
「おじさん、これいくら?」
まずは、以前読んだ本。
『はじめての魔力――魔術基礎入門』
「銀貨八枚だ」
「…………」
知っている。
前と同じ。
銅貨なら八百枚。
次。
『魔力感知と瞑想法』
「それは銀貨五枚」
「ごひゃく……」
今の自分には、それでもかなり高い。
『初級術式図解』
「銀貨十二枚」
「…………たかい」
「その中じゃ一番高いな」
最後。
『魔法生物入門』
「銀貨七枚」
「ななひゃく……」
四冊を見る。
五百枚。
八百枚。
千二百枚。
七百枚。
「…………」
全部欲しい。
でも。
今持っているお金とは、桁が違う。
試しに全部合わせようとして――。
「…………?」
途中で分からなくなった。
「おじさん、ぜんぶだと?」
「銀貨三十二枚だ」
「さんじゅうに……」
銅貨なら。
「さんぜん……?」
「二百」
「さんぜんにひゃく……」
もう一度、本を見る。
遠い。
とても遠い。
今日、自分の商品が初めて売れた。
特注の仕事だって一つもらった。
それでも。
四冊全部を買えるようなお金には、まだ全然届かない。
「ぜんぶは、むり?」
「今すぐならな」
「…………」
少し残念。
でも。
一冊なら?
最後の日までに、もっと商品が売れたら?
まだ分からない。
だから今は決めない。
最後の日。
そのとき持っているお金を見て。
買える本の中から、どれを選ぶのか考える。
「さいごにきめる」
「ああ。それでいい」
その日の午後も、店先に残った。
自分のマフラーを売りながら、行商人の手伝いもする。
狼のあみぐるみは、相変わらずよく目立った。
「あれ、何?」
「かわいい」
「これ売ってないの?」
何度も聞かれる。
そのたびに答えた。
「これは、ひばいひん!」
「売ってないの?」
「うん。でも――」
少し考えてから続ける。
「ちゅうもんなら、つくれるよ」
「注文?」
「ほしいのきいて、つくるの!」
ただし。
誰にでも、
「一か月で作れる!」
とは言わなかった。
もう白猫を一つ作る約束をしている。
編み物だけを一日中できるわけでもない。
文字も勉強したい。
計算もしたい。
魔力感知の練習も続けたい。
それに三歳の身体では、ずっと編み続けることもできない。
もし何人にも同じ約束をしてしまったら。
全部を一か月で作れなくなるかもしれない。
だから興味を持った人には、
「いま、ひとつつくるやくそくしてる」
と伝える。
そのうえで、本当に欲しいと言われたら、そのときにいつ作れるか考えることにした。
夕方。
残っていた子供用マフラーが一つ売れた。
「やった!」
これで子供用は全部売れた。
残るのは、大人用マフラーが一本。
それも一人が手に取った。
編み目を見る。
首へ当てる。
しばらく考えて――。
「少し高いな」
元の場所へ戻した。
「…………」
売れなかった。
値段を下げれば、買ってもらえたかもしれない。
でも。
すぐには下げなかった。
ほかの人なら、この値段でも買うかもしれない。
明日も売れなければ、また考えればいい。
今日は、そのままにした。
◇ ◇ ◇
店の手伝いを終えたあと。
まだ外が明るいうちに、町の中を歩く。
探しているのは――猫。
「…………いた」
家の前。
一匹の猫が座っている。
すぐには近づかない。
少し離れたところから見る。
「まるい……」
狼より頭が丸く見える。
鼻先も短い。
耳は頭の上に立っているけれど、狼とは位置も形も少し違う。
紙を出す。
簡単に線を引く。
頭を描いて。
耳を付けて。
身体を描く。
そこから四本の脚と、長い尻尾。
「…………へん」
描いたものを見る。
あまり猫に見えない。
もう一度、本物を見る。
描く。
見る。
直す。
猫が立ち上がった。
「!」
歩き始める。
今度は横から見る。
座っていたときより身体が長く見える。
前脚と後ろ脚の曲がり方も違う。
背中から尻尾へ続く線も、さっき描いたものとは違っていた。
「…………」
追いかけない。
見える範囲で観察する。
やがて猫は家の裏へ消えた。
手元の紙を見る。
上手な絵ではない。
でも。
頭の中だけで思い出していたときより、ずっと分かる。
「オオカミさんと、ぜんぜんちがう」
白くした狼では駄目だ。
もっと猫を見なければならない。
今日は一匹。
明日は、また別の角度から見てみよう。
紙を畳んで家へ戻る途中、今日一日のことを思い返す。
朝には、二十枚あった手付金から材料を買った。
欲しかった魔法書は目の前にあったのに、買わなかった。
午後にはマフラーが一つ売れた。
でも、もう一本は値段を理由に売れなかった。
使うお金。
残しておくお金。
売れたもの。
売れなかったもの。
夏に行商人の店を手伝っていたころは、そんなことまで考えていなかった。
客が来れば呼ぶ。
頼まれたものを運ぶ。
それだけだった。
今は、自分で作るものを決めて。
値段を考えて。
売れなければ、その理由まで考えるようになっている。
まだ分からないことの方が多い。
それでも少しずつ、自分で考えなければならないことが増えていた。
◇ ◇ ◇
夜。
家へ戻っても、白猫にはまだ手をつけなかった。
今日見ただけでは、まだ足りない。
明日も猫を見る。
できれば違う姿勢も見る。
それから作り始める。
買ってきた白い毛糸を机へ置き。
少し離れた場所へ座る。
魔法書は買わなかった。
でも――。
練習するだけなら、お金はいらない。
目を閉じる。
呼吸を確かめる。
胸の鼓動を感じる。
身体の温かさ。
指先に触れる空気。
一つずつ確かめていく。
そして。
最近、何度か感じているものへ意識を向ける。
身体の中心にある。
まだ、何なのか分からない感覚。
追いかけない。
決めつけない。
ただ観察する。
「…………」
しばらくすると。
……すぅ。
胸の奥から。
何かが、右腕の方へゆっくり移ったような気がした。
「…………?」
右手を開く。
何もない。
光らない。
熱くもない。
魔法が出たわけでもない。
それでも。
今の感覚は、呼吸とは違った。
心臓の鼓動とも違った。
偶然かもしれない。
身体の別の感覚を、勘違いしているだけかもしれない。
だから。
今日だけでは決めない。
明日も。
その次の日も。
同じように確かめる。
一度感じただけで、
「できた」
とは言わない。
編み物だってそうだった。
一度綺麗に編めても、次も同じようにできなければ身についたとは言えなかった。
商売だってそう。
今日売れたからといって、明日も売れるとは限らない。
魔法も――きっと同じだ。
何度でも確かめる。
同じことができるようになるまで。
魔法への道は、まだ続いている。




