004 約束の境界線
――約束の境界線――
もう一度、振り返った。
「…………」
遠くに町が見える。
その中にある自分の家も――見える。
ものすごく小さい。
腕を伸ばして指先を重ねれば、簡単に隠れてしまいそうなほど小さかった。
けれど。
まだ見える。
なら、まだ大丈夫。
母親は言ったのだ。
――家の見えるところまでよ。
家は見えている。
だから約束は守っている。
何も間違っていない。
そう確かめると、先ほど見つけた石の祠の横を通り過ぎた。
そして、その先へ向かって歩き始める。
てくてく。
てくてく。
やがて、町の畑の端までやってきた。
そこを越えたところで、足元の様子が変わった。
町の中の道は、たくさんの人が歩くから平らになっている。
けれど、ここは違う。
道の端から草が伸び、小さな石があちらこちらに転がっていた。
「っと……」
小石を踏んだ。
身体がぐらりと傾く。
慌てて反対の足を出す。
「…………」
転ばなかった。
また歩く。
今度は伸びた草に足を取られそうになる。
歩きにくい。
それでも、その先には知らない景色がある。
だから止まらなかった。
しばらく進んだところで、また振り返る。
「…………」
町はまだ見えている。
家も――。
「…………?」
目を細めた。
さっきまでなら、どれが自分の家なのか分かった。
見慣れた赤茶色の屋根が、小さいながらも見えていたからだ。
けれど今は、ほかの屋根に紛れ始めている。
「あれ……?」
じっと見る。
赤茶色の、小さな点。
あれだろうか。
たぶん、あれ。
きっと自分の家だ。
そう思えば、まだ見えている。
なら――。
もう少しだけ。
再び前を向いた。
てくてく。
てくてく。
けれど。
だんだん、足が重くなってきた。
「…………」
歩く速さが遅くなる。
さっきまでは平気だったのに、一歩進むたびに足が疲れる。
喉も渇いてきた。
水は持っていない。
そもそも、こんなところまで来るつもりで家を出たわけではなかった。
それでも。
目の前には、初めて見る草原が広がっている。
あと少し。
あそこまで。
ゆっくりと歩いていく。
そして、ついに畑の向こうに見えていた草原へ足を踏み入れた。
背の低い草が風に揺れている。
町の中とは違う匂いがした。
風が遮られることなく、身体の横を通り抜けていく。
「…………」
少しだけ立ち止まり、辺りを見回す。
ここまで来たのは初めてだった。
それから。
思い出したように、後ろを振り返る。
「…………?」
町はある。
それは分かる。
小さな屋根も、たくさん見えている。
けれど――。
家は?
「…………」
目を細める。
さっき自分の家だと思った、赤茶色の屋根を探す。
一つ。
その隣にも一つ。
似たような色の屋根がある。
「あれ……?」
どっちだろう。
こっち?
それとも。
あっち?
「…………」
分からない。
町は見えている。
家も、たぶんあの中にある。
でも。
自分の家がどれなのか分からない。
――これって、おうち、みえてるの?
母親は言った。
家の見えるところまで。
町は見える。
屋根も見える。
でも、自分の家が分からない。
「…………」
今まで考えたこともなかった。
見えていることと。
それが何なのか分かること。
どうやら、同じではないらしい。
そして。
もう一つ気づいた。
そろそろ帰らないといけない。
来た方向は分かる。
ほとんど一本道だった。
後ろに見えている町へ向かえば帰れる。
迷子ではない。
けれど。
「…………」
足を見る。
重い。
ここまで歩いてきた道を、もう一度歩かなければならない。
振り返って町を見る。
「とおい……」
来るときには、こんなに遠いとは思わなかった。
そのときだった。
「いたぞ!!」
「?」
大きな声。
振り返る。
町へ続く道の向こうに、人がいる。
小さく見える人影が、こちらを指差していた。
さっきから大きな声を出していた、近所のおじさんだ。
その後ろから。
もう一人、走ってくる。
「よかった……! いた……!」
「…………」
知っている声。
「おかあさん?」
母親だった。
ものすごい勢いで走ってくる。
いつもの母親とは、少し違った。
洗濯物を干しているときでも。
ご飯を作っているときでもない。
こちらを見たまま、必死に走っている。
どうしてあんなに急いでいるのだろう。
分からない。
でも。
お母さんが来た。
それだけで、少し安心した。
もう、この遠い道を一人で歩いて帰らなくてもいいのかもしれない。
そう思った、そのとき。
ガサッ。
「…………」
前を向いた。
少し離れたところにある草むら。
そこが動いた。
「?」
風だろうか。
じっと見る。
ガサガサッ。
また動いた。
今度は、一か所だけ。
風で草全体が揺れているのとは違う。
何かがいる。
「…………」
目を凝らす。
けれど、草に隠れて姿は見えない。
虫よりは、ずっと大きそうだった。
犬くらいだろうか。
ガサッ。
草がまた揺れる。
さっきより。
少し近い。
「…………」
後ろから、母親の声。
ガサガサッ。
前から、草の音。
振り返る。
母親が走ってくる。
前を見る。
草が揺れている。
「…………」
何だろう。
怖いというより。
まだ、分からなかった。
犬かもしれない。
ほかの何かかもしれない。
ただ。
何かがいる。
そして。
こちらへ近づいてきている。
ガサッ。
揺れた草の向こうを、じっと見つめる。
家のことも。
疲れた足のことも。
母親がどうしてあんなに必死に走っているのかも。
その瞬間だけは、頭から消えていた。
目の前にいる。
まだ見たことのない何か。
それが何なのか。
ただ、それだけが気になっていた。




