039 渡したいもの
――渡したいもの――
「おじさん!」
町へ入ってくる馬車が見える。
秋になったらまた来ると言っていた、行商人のおじさんだ。
外へ飛び出そうとして――足が止まった。
「…………」
まだある。
渡したいものが、もう一つ。
でも、おじさんにではない。
家の中へ戻る。
「どうしたの?」
後ろから母の声が聞こえる。
さっき完成させた狼のあみぐるみを抱えて、自分のものを置いているところへ向かう。
「まだ、ひとつある」
「一つ?」
奥から取り出したのは、小さなハンカチだった。
以前、森で狼のために使ったものとは別のもの。
これは、ずっと自分が使っていた。
手に取って顔へ近づけてみる。
「…………」
自分ではよく分からない。
でも、自分の匂いがついているはず。
ハンカチを小さく畳んでから、狼のあみぐるみを裏返した。
「…………?」
母が覗き込む。
狼の身体には、まだ完全に閉じていない部分が残っていた。
見た目はもう完成している。
頭も脚も耳も尻尾もあり、顔もできている。
でも、最後にここだけは閉じなかった。
「それ、入れちゃうの?」
母がハンカチを見る。
「うん」
「……狼さんに?」
「うん」
小さく畳んだハンカチを、開いているところから中へ入れる。
詰め物を少しずつ押し分けながら、身体の真ん中へ入れていく。
母が何も言わなくなった。
「…………」
狼のあみぐるみを見て、それからこちらを見る。
「そういうことだったのね」
「?」
「売るために作ったんじゃなかったんだ」
「うん」
最初から、これは売るためのものではない。
森で会った、あの狼へ渡すために作っていた。
◇ ◇ ◇
ハンカチを奥へ押し込み、外から触って変な形になっていないか確かめる。
少し膨らんでいる。
「…………」
位置をずらして、もう一度触る。
今度は大丈夫そう。
でも、ここから先は一人ではできない。
開いている部分を閉じなければならないからだ。
「おかあさん」
「うん。針を使うのね」
「うん」
母が裁縫箱を持ってきて、隣へ座る。
昨日までと同じ。
一人では針を使わない。
母から針を受け取り、糸を通す。
「…………」
一度、外れた。
もう一度ゆっくり狙うと、今度は通った。
「はいった」
「うん」
糸を整え、母に確認してもらってから狼の身体へ針を入れる。
一針縫って糸を引くと、開いていたところが少し閉じた。
もう一針。
「…………」
中にはハンカチが入っている。
針を深く入れすぎないように。
詰め物を変なところへ寄せないように。
ゆっくり、一針ずつ進めていく。
途中で手を止めて、外から触って確かめる。
大丈夫。
また続きを縫う。
そうして最後まで閉じると、糸を留めるところは母にも見てもらった。
「ここ?」
「うん。もう少ししっかりね」
「…………」
もう一度やり直す。
「これで?」
母が受け取り、閉じたところを指で確かめる。
少し引っ張ってみてから頷いた。
「……うん。大丈夫そうね」
「…………!」
返してもらう。
今度こそ、全部できた。
◇ ◇ ◇
両手の上に、小さな狼を乗せる。
灰色の身体には少し尖った耳があり、黒い目と鼻、四本の脚と尻尾もついている。
右の後ろ脚だけは、少し違う色の毛糸を使った。
そして、外からは見えない身体の中には、自分が使っていたハンカチが入っている。
「…………」
これを見れば、狼が自分だと分かる?
分からない。
前に置いたハンカチや絵を、狼が何度も調べていたことは覚えている。
鼻を近づけていた。
匂いを確かめているように見えた。
だから、これも同じように調べてくれるかもしれない。
自分の匂いだと気づいてくれるかもしれない。
でも、それはまだ分からない。
あみぐるみには毛糸の匂いもある。
家の中に置いていた匂いもあるし、母も触っている。
いろいろな匂いが混ざっている中から、自分の匂いを見つけてくれるだろうか。
「…………」
分からない。
それに、もっと大きな問題がある。
あの狼が今どこにいるのか、それすら知らない。
森へ帰ってから、一度も会っていない。
◇ ◇ ◇
あみぐるみを抱えて、父のところへ向かう。
父は何かを直していたが、こちらに気づくと手を止めた。
「どうした?」
「これ」
両手で狼を見せる。
父はそれを見て、一瞬黙った。
「……あいつか?」
「うん」
すぐ分かった。
「よく作ったな」
「うん!」
少し嬉しくなって、もっと近くで見せる。
「ここ」
右の後ろ脚を指差す。
「けがしてたところ」
「そこまで作ったのか」
「うん」
それから狼を抱き直す。
「なかに、ぼくのハンカチはいってる」
父の表情が少し変わった。
「ハンカチ?」
「うん」
「どうして入れた?」
「…………」
狼を見る。
「オオカミさんに、わたしたい」
父はすぐには答えず、少し考えているようだった。
前みたいに、狼がいる場所へ持っていく。
もう、それはできない。
「どこにいるか分からないぞ」
「うん」
「森の中を探し回るのも駄目だ」
「うん」
それは分かる。
森は広く、狼がどこにいるのかも分からない。
それに、もし見つけたとしても。
「見つけても、近づかない。いいな?」
「うん」
前に怪我をした右手のことを思い出す。
狼は犬ではない。
森で暮らす動物だ。
「…………」
父は腕を組み、しばらく考えてからこちらを見る。
「前にあいつがいた場所なら、置きに行ける」
「!」
顔を上げる。
「ただし」
父の声が少しだけ強くなった。
「そこに置けば渡せる、って意味じゃないぞ」
「…………」
「もうあの場所には戻ってこないかもしれない」
「うん」
「雨が降れば濡れる」
「…………」
狼を見る。
毛糸でできているから、濡れたらきっとぐっしょりする。
「ほかの動物が持っていくかもしれない」
「…………」
「誰かに拾われるかもしれない」
それもある。
「もう二度と、あいつがあそこを通らないかもしれない」
「…………」
両手の中の狼を見る。
何週間もかけて、何度も失敗しながら作った。
ほどいて、作り直したこともある。
頭も身体も、四本の脚も、耳も尻尾も、目も鼻も作った。
今まで作ったものの中で、一番難しかった。
もし置いてきたら、もう戻ってこないかもしれない。
狼にも届かず、ただなくなるだけかもしれない。
「…………」
ぎゅっと抱く。
少しだけ迷う。
自分の部屋に置いておけば、ずっと残る。
なくならない。
でも。
これは。
「オオカミさんに、つくった」
父を見る。
「おきたい」
「…………そうか」
父が頷いた。
「じゃあ、今度安全に行けるときにな」
「うん!」
いつ行けるのかは分からない。
そのとき、狼が来るのかも分からない。
それでも、渡せるかもしれない場所はある。
「…………」
狼をもう一度見る。
届く?
分からない。
でも、置いてみたい。
◇ ◇ ◇
「おーい、坊主! いるかー?」
「!」
外から大きな声がした。
聞き覚えのある声。
忘れていたわけではない。
でも、狼のことで少しだけ遅くなった。
「おじさん!」
走り出そうとして――また止まる。
「…………」
もう一つある。
今度こそ、あの人に渡すもの。
狼のあみぐるみを大事に置いて、別の場所から一本のマフラーを取り出した。
売るために作った五本とは違う。
何度も編み目を確かめ、少しでも気になるところがあればほどいた。
今まで覚えたことを全部使って、できるだけ丁寧に作った一本。
行商人のおじさんへ渡すためのマフラー。
「…………」
数か月前、初めて会ったとき。
自分にはお金がなかった。
本が読みたかった。
でも、買えなかった。
だから聞いた。
何か仕事はない?
そうして初めて働き、初めて自分でお金をもらった。
あのときは、何かをもらうために、自分にもできる仕事を探した。
今は違う。
自分で作ったものがある。
渡したいものがある。
マフラーを両手で抱える。
外から、もう一度声がした。
「坊主ー?」
「いまいく!」
今度こそ玄関へ向かう。
開いた戸口から、秋の風が入ってくる。
その向こうには、待っていた人がいる。
マフラーを抱えたまま、外へ駆け出した。




